いま、蒸気機関車というと、特別なイベント列車といったイメージがある。「SL人吉」(熊本駅〜人吉駅)、「SLやまぐち号」(新山口駅〜津和野駅)、「SL北びわこ号」(米原駅〜木ノ本駅)、「SL函館大沼号」(函館駅〜森駅)など、週末や夏休みに走る臨時列車は、どれも人気だ。7〜9月までの「群馬デスティネーションキャンペーン」でも、「SLみなかみ」などの観光列車がひとつの目玉となっている。
今でこそ蒸気機関車は、こうした“特別”な“臨時”の車両であるが、1872(明治5)年の鉄道開通時から、1975(昭和50)年12月の定期運行終了まで、じつに103年に渡って現役で活躍した“普段づかい”かつ“ロングセラー”の機関車といえる。今年でデビュー47年の新幹線など、いまだその半分にも及ばない。
現在、その車体をよく見かけることができるのは、公園や駅前に置かれている静態保存鉄道としてだろう。武骨を絵に描いたような、複雑なつくりの黒一色のたたずまいは、ステンレスやアルミの車体にはない重厚な存在感がある。これがひとたび動き始めると、油を差して、ぬめぬめと光るあらゆる部品たちが連動して、まるで車体そのものが生きているかのように躍動する。もくもくと煙があがる。煤煙のすっぱいような匂いを残しながら、ゆっくりと目の前を通り過ぎていく。年齢や性別を問わず、多くの人が目をきらきらさせる光景ではないだろうか。
とはいえ、機関車としては効率的ではない。動かすには大量の石炭が必要で燃料費が高くつくし、その燃料を積んで走らなくてはならないために長距離・高速運転にはあまり向いていない。運転や整備にはある程度の技術が必要で、なんといっても乗客や沿線住民が煤煙に悩まされた。
国鉄(当時)は、1960年代に入ると、蒸気機関車を段階的に廃止する「無煙化」計画に着手する。いざ消えるとなると人気が出るのは今も昔も変わらず、それまで日常風景だった蒸気機関車を惜しんで、各地で「SLファン」が出没した。
『ダイヤエース時刻表』1968(昭和43)年10月号を見ると、「4月1日現在で2644両あった車両のうち、本年中に412両が廃車になる」とある。廃車数の推移が、1965年度が171両、66年度が249両、67年度が273両だったのに比べると、格段に増えていることがわかるだろう。
この月に行われたダイヤ改正は年月の数字(43年10月)から“ヨンサントオ改正”と呼ばれた大々的なもので、各地で電化(鉄道の動力を電気にする)がすすみ、非電化区間にはディーゼル機関車や気動車が導入され、多くの蒸気機関車が消えていった。60年代に入ってからの高度経済成長で、速く大量に運ぶことが鉄道にも要求されてきたのである。
1年後の1969(昭和44)年10月号には、「電化区間は年々のびていて、現在では約5800km、全営業キロの26%」になったはいいが、電力が不足してきたため、国鉄自前の川崎火力発電所に約57億円をかけて新たな発電機を増設する、とある。石炭から電気へのエネルギーシフトが急ピッチで進んでいた。
このころの時刻表の本文を見てみると、蒸気機関車で走るダイヤには車体正面の顔を簡略化したマークが付されていて、見つけるたびに心が躍る。たいていは早朝と深夜、短い区間を走る各駅停車に多く見られるのだが、ときとして播但線(姫路駅〜和田山駅)のように下り11本、上り14本にマークが付いていて、1日のほぼ半数の列車が蒸気機関車(69年10月号)という、今では夢のような路線を発見することもある。
1964(昭和39)年10月には東海道新幹線が開通しているので、時刻表本誌の巻頭部分には、新幹線のダイヤが掲載されている。思えば、新幹線に乗った同じ日に蒸気機関車に乗り継ぐことも可能なわけで、そんな新旧の列車を1日で楽しむことができたのも、この時代の醍醐味だろうと思う。
『ダイヤエース時刻表』1970(昭和45)年10月号によれば、鹿児島本線が全線電化し、鹿児島から青森までの太平洋側に、交流・直流のちがいこそあれ架線(電車に電気を送る電線)がつながったことになった。
1972(昭和47)年は、1872年に鉄道が開通してから100年にあたる。「鉄道の日」の10月14日には、汐留〜東横浜間に蒸気機関車が走り、熱狂的なファンが集まって京浜東北線を30分も止めてしまったという。『ダイヤエース時刻表』72年12月号の編集後記に、「今やSLは、走る交通機関から、見る交通機関に変わった感さえする」とあるように、もはや日常生活の足ではなく、消えゆく記念物としての“流行りもの”になってくる。時刻表の表紙には、「DISCOVER JAPAN」のマークと共に、「ひとめでわかるSL列車」というキャッチもつき、前述のSLマークがついた時刻表であることをアピールしている。
鉄道100年の歴史は、そのまま蒸気機関車の歴史でもあり、この年、車両を産業文化財として動態保存するための施設「梅小路蒸気機関車館」が京都市に開設された。
1973(昭和48)年3月には、車両は809両まで減り、SLブームは最期の熱狂期に入る。北海道や九州など、かろうじて蒸気機関車が残る路線に人びとは押しかけた。いつ、どこで、どの形式が走るのかという情報がにわかに注目されるようになるが、今のようにインターネットで簡単に得られるわけもなく、そこで登場したのが、同じく弘済出版社(現・交通新聞社)発行の『SLダイヤ情報』であった。
1972〜75(昭和47〜 50)年の間、半年に1回、計7冊発行されたSL専門情報誌で、国鉄のSL列車(旅客・貨物)の時刻表、SL運転線区を記した日本地図、撮影地ガイド、動態・静態保存車両の紹介、と蒸気機関車について知りたいことがすべて網羅されているといっても過言ではない充実ぶりだ。
全7冊の順を追って見ていくと、運転線区の地図は北海道地方だけになり、巻頭グラビアは「さようなら○○」と書かれたヘッドマークや旗をつけた列車が多くなり、時刻表はスカスカになる一方で保存車両の情報は増えていき……と、当時を知らずとも、せつない気分になってくる。最期の煙が、北海道の青い空に薄く長くたなびく様が、脳裏に浮かぶ。
定期運行の旅客列車としての蒸気機関車が引退したのは、1975(昭和50)年12月14日、室蘭本線においてだった。このとき走ったC57 135は現在、さいたま市の鉄道博物館に展示されている。現役時代にこの目で見たことがない自分にとっては、蒸気機関車は鉄道記念物的な遺産であって、身近ではない存在だった。
だが、かつての時刻表に記されたSLマークをたどっていくと、日々のダイヤに組み込まれていたものが、徐々に数を減らし、消えていく様を目の当たりにする。ある日突然なくなったのではなく、およそ15年かけて、電車やディーゼル車に置き換えられていったわけだ。その間、新幹線が登場し、どんどん西へ延伸し、オリンピックや万博を経て日本人が旅にめざめるディスカバー・ジャパンの時代があった。そんな華やかなトピックの傍らにはずっと、あの漆黒の武骨な列車がいたことに、改めて感じ入るのである。
(つづく)
“ひとめでわかるSL列車”とSL顔マークが添えられた『ダイヤエース時刻表』1972年12月号
文:屋敷直子
参考文献:
鉄道『SLダイヤ情報』/交通新聞社