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文=屋敷直子
玄関を出たら雨だった。空のどこを見ても灰色で、太陽の気配はまったくない。いったい何の因果か。山方面へ行くから事態が好転するとは思えない。でも出発する。「長野のいろいろな電車にたくさん乗って、終点の温泉でのんびりする」ためには、雨なぞにくじけてはいられないのだ。
高尾から中央本線に乗る。いつもの生活だと高尾は終点だが、今日はここが始点。いつもの駅のその先へ。胸が高鳴る。雨でけぶった山々が続くが、大月を過ぎるとすこし晴れてきた。山梨県に入ると、なだらかな平地に見渡すかぎりブドウの木が並んでいる。むかし地理で習った「甲府盆地ではブドウが栽培されていて、特産はワイン」を肌で感じることができた。
13時すぎ、小淵沢駅に到着。小海線のはじまりである。小海線では、平成19年の夏、世界初のハイブリッド車両「こうみ」がデビューした。ディーゼルエンジンと蓄電池を使い分けて走るエコ車両で、発車するときは蓄電池、加速するときはディーゼルと蓄電池でモーターを動かす。さらに停車時、ブレーキをかけるときに出るエネルギーを蓄電池に貯めておくこともできる。つまりムダがない仕組みなのだ。
13時14分発の「こうみ」号は、大混雑。そんなに人気なのか? と驚くが、乗客はおじさま方、おばさま方がメインだ。「あら、なんだか新しい車両なのねえ」「きれいね」と、口ぐちにおっしゃっているところをみると、特に「こうみ」目当てではないらしい。
いっぱしのイベント列車のような、にぎやかで期待感いっぱいの雰囲気で出発する。発車がスムーズ、と思ったのは気のせいか。でも音はたしかに静かだ。
中央本線の景色とは一変して、緑濃い森の中を「こうみ」は走る。ときどきメルヘンな別荘がぽつぽつと建っているのが見えるくらいで、線路が通っているのが不思議なくらいだ。秘境というのとはまた違った隔絶感。景色が鮮やかで心細くならないローカル線、というのも新鮮だ。清里で、おじさまおばさま軍団が降りていかれる。大学のサークルの合宿というイメージだったが、今の清里はそうでもないらしい。
次の野辺山駅までの間の線路脇には、JR鉄道最高地点(1375m)があり、車内でもアナウンスされる。
野辺山駅(標高1345.67m)で下車。レンタサイクルを借りて、野辺山天文台へ向かう。ここは星を観測しているのではなく、巨大パラボラアンテナの電波望遠鏡で宇宙に飛び交う目に見えない電波や光線を観測している。無料見学できるみたいだからちょっと行ってみるか、という気軽な気持ちだったが、予想外に圧倒される。
構内には、直径45mのパラボラアンテナの他にも小さいアンテナが多数、整然と並んでいる。そのアンテナの間を運搬用のレールが延びている。しかもレールの幅はかなり広い。曇りがちな空の下、大小取り混ぜた多数のアンテナと長く延びるレール。さっきまで爽快な小海線に乗っていたことを、すべて忘れさせるSFな景色だった。
野辺山駅で駅弁を食べ、ふたたび小海線に乗る。雲は次々と形を変えて動いている。雨が降ったりやんだりしているが、突然山の稜線から大きな虹が見えた。希望。
駅には標高が書いてあって、どんどん下ってきているのがわかる。小海駅以降は民家が増えてきて、生活のにおいがしてくる。今晩は、中込で泊。佐久鯉が名物と聞いて、鯉料理を食す。刺身、からあげ、煮付け、鯉こく、ウロコの酢のもの、ウロコせんべい、など、まるっと一匹ムダなくいただいて、満足。10年ぶりくらいに自転車に乗った疲れが出て、21時、夢も見ずに眠る。