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2009.02.01鉄道伊勢奥津駅SL給水塔 今も残る鉄道遺産

未来に伝えたい鉄道遺産

1872(明治5)年の新橋駅~横浜駅間開業以降、全国にその網を広げ続けてきたに日本の鉄道。厳しい地理的条件を克服するために、さまざまな技術が施された場所も少なくありません。できあがった当時の社会や先人たちの苦労を、無言で語っているかのような鉄道遺産。そんな、未来にも伝えていきたい名建築を訪ねる旅に出てみませんか。

伊勢奥津駅SL給水塔

名張延伸が幻で終わった、名残の給水塔


駅舎はきれいに新設され、かつての機回し線など側線も無くなったが、ローカル線のよきムードはそのまま

名松(めいしょう)線はその名前が示すように、三重県の名張と松阪を結ぶ目的で建設が行なわれた路線です。その昔は、奈良県桜井より榛原(はいばら)を経由させる壮大な計画ではじまり、桜松(おうしょう)線と名乗っていましたが、参宮急行電鉄(現在の近鉄大阪線)が開通したため、桜松線は1935(昭和10)年に松阪~伊勢奥津間を開通させたに過ぎませんでした。

しかし、戦後も名張までの延伸の要望は強く、建設の促進が行なわれました。名松線として、その先への線路の建設が待たれましたが、それは叶わず、ついに夢に終わってしまいました。

名松線は進むにつれ線路は険しく、伊勢奥津付近では最急勾配が20‰(パーミル)もあり、名張まではさらに急な峠が控えます。そこで、伊勢奥津には蒸気機関車に水を補給する「給水塔」が建設されました。


蔦の絡まるコンクリート製の「給水塔」は哀愁たっぷり。名張への未開通の無念さが車止めの先に感じられる

名松線にはC11型タンク式機関車が配置され、客車列車や貨物列車を牽引しました。タンク式機関車は、小型のため「転車台」が無くても方向転換できる優れモノ。「給水塔」はその機関車が水を飲むのに欠かせない設備です。蒸気機関車廃止後、「給水塔」は撤去が予定されましたが、地元の人たちの熱意で保存されることになりました。

周辺には桜の木が植えられ、春には大変美しい風景が広がります。「夢の跡」となった名張へ向けた線路が、はかなくもロマンのある過去の歴史を物語っています。

●交通 名松線 伊勢奥津駅下車

北陸本線旧線軍

「柳ヶ瀬越え」「山中越え」で格闘した旧本線

北陸本線の木ノ本から敦賀を経て今庄にかけては、かつて現在線とはまったく異なるルートを走っていました。いずれも「柳ヶ瀬越え」「山中(やまなか)越え」と呼ばれる勾配の急な難所があり、蒸気機関車が貨物、旅客列車で格闘し、早急な改善が求められていました。

木ノ本~疋田(ひきだ)間には途中、1884(明治17)年建設の「柳ヶ瀬トンネル」があり、これは1000メートルを超える我が国初の長大トンネルでした。時の総理大臣・伊藤博文が完成を祝して、揮ごうした扁額が掛かるほどの名トンネルでしたが、25‰の勾配にある同トンネルは蒸気機関車の煤煙で機関士を苦しめ、排煙装置が設けられるほどでした。昭和32年(1957)に近江塩津経由の新線に切り替わり、現在は道路トンネルになっています。

「山中越え」は敦賀~今庄にかけて、敦賀湾を一望しながら峠越えをした雄大なルートです。途中、深山(みやま)信号場、新保(しんぼ)、葉原信号場、杉津(すいづ)、山中信号場、大桐など多くの停車場がありましたが、連続勾配の難路で、蒸気機関車が重連で勾配に挑みました。

1962(昭和37)年に北陸トンネルが開通すると「山中越え」は廃止されます。線路や数々のトンネルは道路になり、現在もその遺構を辿ることができます。

1896(明治29)年開通、全長1194.5メートルの山中トンネル北側出口はその代表格。勇壮な坑門(こうもん)と並んで、かつてのスイッチバック式の山中信号場跡があり、今なお残る引上線跡が見事です。「柳ヶ瀬越え」「山中越え」共に、幹線鉄道らしい威厳と風格が強く感じられ、その衰えぬ存在感に圧倒されるばかりです。

●交通 北陸本線 余呉駅からタクシー約15分、または今庄駅からタクシー約25分


「山中越え」の要衝、山中トンネルの北口にはスイッチバックの山中信号場がかつてあり、面影をよく残している

「柳ヶ瀬越え」の隘路(あいろ)の途中には中之郷駅が存在し、道路沿いには駅名標が立つホームが残されている

大畑駅スイッチバックとループ線

かつての鹿児島本線を行く急峻な峠越え


人吉~吉松間に運転される「いさぶろう・しんぺい」号。木を使った豪華な車内からパノラミックな風景が楽しめる

熊本県の八代と鹿児島県の隼人(はやと)を結ぶ全長124.2キロメートルの肥薩線は、1909(明治42)年の全通時は鹿児島本線を名乗っていました。後に、出水(いずみ)、川内(せんだい)を経由する海岸沿いのルートが鹿児島本線として変更されますが、当時は敵艦からの艦砲射撃の恐れを懸念するなどし、敢えて山岳地帯に線路を貫いたのです。

結果、人吉~吉松間には急峻な「矢岳(やたけ)越え」と呼ばれる峠越えが強いられました。鉄のレールと車輪との摩擦で走る鉄道は勾配に弱く、蒸気機関車が重たい貨車を牽くのは、なおさらつらい事となりました。

「矢岳越え」は最急勾配を30.3‰とし、大畑(おこば)にループ線を設け、途中、大畑、真幸(まさき)の2つのスイッチバック駅を配置しました。

ループ線は線路をループ状に建設し、距離を延ばして勾配を緩和させる手法ですが、大畑ではそれでも勾配が30.3‰とあまりに険しく、蒸気機関車の連続運転が困難であったため、ループ線の勾配途中にスイッチバックで停車場が設けられたのです。


人吉盆地を見下ろしながら難路に挑む肥薩線列車。スイッチバックを繰り返し、一歩一歩ゆっくりと進む

大畑駅には機関車が水を飲むための「給水塔」や乗客が煤けた顔を洗う「洗面台」が設置され、乗客も列車も小休止して峠に挑みました。それらの遺構は現在でも見ることができます。

今も残るスイッチバックとループ線の「儀式」を受け、険しい勾配を列車で登ると、難行苦行だった頃の当時の旅を追体験することができます。

●交通 肥薩線 大畑駅下車

  • 文:斉木実
  • 写真協力:斉木実(北陸本線)
  • 掲載されているデータは2009年2月現在の情報です。変更となる場合がありますので、お出かけの際には事前にご確認ください。
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