2009.03.01鉄道日本の鉄道の恩人・エドモンドモレルとは?
未来に伝えたい鉄道遺産
1872(明治5)年の新橋駅~横浜駅間開業以降、全国にその網を広げ続けてきたに日本の鉄道。厳しい地理的条件を克服するために、さまざまな技術が施された場所も少なくありません。できあがった当時の社会や先人たちの苦労を、無言で語っているかのような鉄道遺産。そんな、未来にも伝えていきたい名建築を訪ねる旅に出てみませんか。
エドモンド・モレルの墓
鉄道創世記に活躍した“日本の鉄道の恩人”
1872(明治5)年、日本で初めて新橋〜横浜間に開業した鉄道。その鉄道敷設のために招聘されたイギリス人の鉄道技師がエドモンド・モレルです。
当時、日本はまだ開国間もない頃で、鉄道の技術などは皆無だったと言われています。そこで明治政府はイギリス公使ハリー・パークスの推薦を受け、明治3年にセイロン島(現在のスリランカ)で鉄道敷設の指揮をしていたモレルを日本に招きました。彼は初代鉄道兼電信建築師長に就任し、以後、日本の鉄道建設の指揮に当たったのです。
枕木は当初イギリスから鉄製のものが輸入される予定でしたが、「森林資源の多い日本では木材を使用した方がよい」とモレルが進言。国産の木枕木に変更されるなどし、日本の鉄道の将来を見据えたその功績から「日本の鉄道の恩人」と称賛されました。
しかし、彼は来日前から肺結核に病んでおり、疲労もたたって、日本の鉄道開業の晴れ舞台を見ずに、明治4年この世を去り、日本人の妻も後を追うように亡くなってしまいます。
横浜の山手エリアにある横浜外国人墓地にはモレル夫妻の墓が建てられ、昭和37年にはその偉業を称えて鉄道記念物に指定されました。また、旧横浜駅であった桜木町駅構内にも「モレルのレリーフ」が設けられ、その功績を今なお静かに伝えています。
●交通 根岸線 石川町駅から徒歩約25分
吉野川橋梁(高徳線)
かつての鉄道連絡船が結んだ長大橋
吉野川橋梁は、徳島に近い高徳線佐古(さこ)駅〜吉成駅間に架かる鉄橋です。全長949.2メートルのこの橋は、1935(昭和10)年3月の完成当時四国一の長さを誇り、全国の鉄橋ベスト3にも入る長大橋でした。「3径間連続単線下路ワーレントラス」と呼ばれる連続した本格的なトラス構造は日本初のもの。さらに我が国初の「ニューマチック・ケーソン工法」を取り入れて、川底から8mも掘り抜いた基礎コンクリート工事を実施するなど、近代工法の粋を駆使して完成しました。
高徳線は開業当時、板野駅〜池谷駅〜吉成駅間を「阿波電気軌道」という私鉄により運営されていました。阿波電気軌道は徳島と鳴門を結ぶ目的で1916(大正5)年に開業しましたが、川幅の広い吉野川への架橋ができず、吉野川北岸の中原と富田橋の間を鉄道連絡船で結び、運行させました。この連絡船は鉄道省にも引き継がれ、「吉野川連絡船」として活躍しましたが、1928(昭和3)年にバスも通行可能な道路橋が完成。さらに高徳線の吉野川橋梁も完成したことから、その役割を終えたのです。当時は5.2キロメートルの距離を35分かけて運航。運賃は15銭だったそうです。
そんな雄大な吉野川に今なお架かる長大なトラス橋には、川風も心地よく列車が鋼の音を軽快に響かせながら通過していきます。
●交通 高徳線 吉成駅から徒歩約15分
出雲坂根駅スイッチバック(木次線)
三段式スイッチバックで峠越え
木次(きすき)線は島根県の宍道駅から広島県の備後落合駅まで、81.9キロメートルを結びます。途中の三井野原駅を境に、山陰、山陽を隔てた分水嶺を越える厳しい峠があり、木次線は連続30‰(パーミル)という急勾配を克服していきます。
八川駅から三井野原駅まで勾配が連続する木次線ですが、途中の出雲坂根駅では全国でも珍しい三段式スイッチバックで勾配を上ります。
日本の鉄道のスイッチバックは、そのほとんどが「勾配の途中に水平の停車場を設けるため」のものですが、出雲坂根の三段式スイッチバックは逆Z型で、勾配をジグザグに上って山岳地帯を克服するためのものです。同様の例は、箱根登山鉄道や豊肥本線の立野駅など、ごくわずかに見られます。
出雲坂根駅に下り列車が着くと、直ちにスイッチバック。しかし、列車は30‰の勾配を上って500メートル離れた折返線に入り、再びスイッチバックをしてエンジン全開で急勾配に挑みながら三井野原駅に向かいます。
風情ある出雲坂根駅の構内には「延命水」と呼ばれる湧き水があり、喉を潤してくれます。蒸気機関車時代の名残の施設でもあり、往時の旅の様子が伝わってくるようです。
●交通 木次線 出雲坂根駅下車
- ※文:斉木実
- ※写真協力:後藤裕輝、JR四国(吉野川橋梁)
- ※掲載されているデータは2009年3月現在の情報です。変更となる場合がありますので、お出かけの際には事前にご確認ください。