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鉄道遺産を訪ねて

石炭列車の面影を偲んで

 かつて九州の筑豊地方には、網の目のように線路が張りめぐらされていました。それらは、この地方で産出される石炭を、積出し港である若松や小倉、大牟田などに輸送するためのものでした。沿線にある炭鉱からは良質な石炭が産出され、石炭列車が往来しました。しかし、1960年代以降のエネルギー革命により炭鉱は相次いで閉山。石炭列車も廃止され、糸田線、添田線など多数の路線が後に廃線になりました。石炭輸送中心だった筑豊の鉄道は、基本幹線だった筑豊本線が「福北ゆたか線」として通勤、通学輸送を中心とした利便性に富んだ路線に転換するなど、大きな変貌を遂げています。今回は石炭列車の往年の面影が随所に漂う「日田彦山線」を訪ねてみましょう。

二軸の「セム」や「セラ」を連結した伊田駅(現・田川伊田駅)の石炭列車79635(左)。昭和44年撮影(写真協力=田島常雄)

石炭車とは?

石炭輸送に使われた専用貨車。形式記号は石炭を表す「セ」。
荷重トン数により「セム<セラ<セキ」などの形式車両が存在。主に北海道や九州の産炭地で活躍した。

【二軸車】北部九州の産炭地で活躍した車軸が2本ある専用貨車。ドイツ型の鉄道を手本に生産され、石炭は車両中心部の底面から排出される。【ボギー車】北海道の産炭地で活躍した回転可能な台車を装備した専用貨車。アメリカ型の鉄道を手本に生産され、石炭は車両の側面から排出される。

戦前の私鉄が造った複線用トンネル 金辺トンネル

 筑豊田川(福岡県田川市)の石炭を、積出し港の小倉に輸送すべく明治29年(1896)に発足したのが、私鉄の金辺(きべ)鉄道です。金辺鉄道は現在の日田彦山線の北部を建設しましたが、最大の難関である金辺トンネルの掘削で資金難から頓挫し、明治33年に経営が破綻。工事中に経営権を私鉄の小倉鉄道に譲渡してしまいました。

 呼野〜採銅所間にある全長1444mの金辺トンネルは、工事中は我が国最長の複線トンネルとして注目を集めていました。金辺鉄道は、運炭鉄道としての目的のためトンネルなど施設はすべて複線分で造られていたのです。

 工事は一旦中断され、小倉鉄道が引き継ぎましたが、難工事には変わらず多くの苦難を乗越え、ようやく大正14年(1925)に単線で開業しました。

 完成した金辺トンネルは、呼野側と採銅所側では坑門の造りがまったく異なり、採銅所側の坑門が小倉鉄道により後から造られていることが分かります。呼野側の坑門は石積みの複線用のアーチが見事です。このトンネルの直前には金辺トンネルの湧水用の水路橋がありますが、やはり複線用のレンガアーチ橋で、優雅の一言です。

 路線は複線化されることも無く、現在は数本の列車が通過するのみですが、石炭へのロマンを夢見た前世の最も古い遺産のひとつとして、存在感が十分にあります。

●交通 日田彦山線 呼野駅から徒歩20分

重厚な構造で圧倒する金辺トンネル呼野側坑門。赤錆びた石積みで、曲線を描く複線断面の形状が見事だ

呼野側坑門の手前には、湧水排出用の水路橋が架かっている。この橋も複線用のレンガアーチが美しい

かつての炭都を担った中枢駅 田川後藤寺駅

「月が〜出た出た〜月が〜出た〜ヨイヨイ」。おなじみの『炭坑節』のくだりですが、これは石炭から「ボタ」(資源として使えず廃棄してしまう捨石)を取り除く選炭作業を軽快なテンポの歌にしたもので、筑豊の田川が発祥と言われています。

 かつて田川は筑豊の中でも最大の炭として栄え、全国の出炭量の半数を占めた時期もありました。最盛期の1950年代には10万人以上の人口を誇り、移住者も多く、街は大いに賑わいました。その玄関駅が田川後藤寺(旧後藤寺)駅です。
 当時の後藤寺駅には、専用線などを含め、各方面から集まった石炭列車が集結。中枢となる後藤寺機関区もあり、常に蒸気機関車が煙を上げました。広く、長いヤードのある構内は石炭車でいっぱいで、石炭を満載した石炭列車が次々に出発、到着しました。

 しかし、1960年代のエネルギー革命で、資源が石炭から石油に転換すると、石炭産業が斜陽化してしまいます。昭和39年に最大の三井田川鉱業所が閉山すると、田川の石炭産業は静かに終焉を迎え、運炭列車も役割を果たし、運転を終えました。

 現在、広い構内や複数の線路、長い有効長のある立派なホームが、往年の栄華と風格を物語っています。炭鉱の象徴だったこの地の「ボタ山」も、サラ地化され無くなりましたが、昔の空気さえ漂う駅の施設は、石炭の全盛時代を今に伝える貴重な財産と言えるでしょう。

●交通 日田彦山線 田川後藤寺駅下車

田川後藤寺駅を出発する日田彦山線の気動車。広い構内には線路が輻輳(ふくそう)していたが、現在もその面影が強く残る

駅構内には木造の跨線橋も残り、長いホームが構え国鉄ムードがたっぷり。威風堂々として貫禄がある

幸福の黄色いハンカチが飾る炭鉱の駅 大行司駅

 日田彦山線は複雑な歴史を持っています。まず、城野〜香春(かわら)間が前記の小倉鉄道により大正4年(1915)に開業。田川伊田〜西添田間は九州鉄道により明治36年(1903)までに開業。南部の添田〜大行司間は昭和31年に田川線として、大行司〜夜明間が昭和12年に彦山線として開業しています。現在の線名となったのは昭和35年のことです。

 そんな日田彦山線は車窓も変化に富んでいますが、南部の彦山を過ぎ、大分、福岡県境にある宝珠山(ほうしゅやま)はかつて炭鉱で栄えた街で、大行司、宝珠山と木造駅が続きます。このうち大行司駅は、昭和21年の開業当時そのままの姿を保っています。木造の駅舎は下見板(したみいた)の外壁がやさしく、古風な木製のベンチ、製造当時のままの波を打ったガラス窓などが、温かく乗客を迎えてくれます。

 また、この駅の近くにあった宝珠山炭鉱は、俳優・高倉健さんの父が働き、氏が幼少の頃から利用した駅としても知られています。駅構内には、氏の主演作『幸福の黄色いハンカチ』にちなみ、黄色いハンカチが多数飾られており、風になびいています。

 この付近の日田彦山線の線路はモダンな造りのアーチ橋が連続し、風景に彩りを添えています。これらアーチ橋は、いずれも昭和13年に竣工したコンクリート製ですが、建設時は資材不足で、鉄筋が使用されなかったというエピソードが残っています。

●交通 日田彦山線 大行司駅下車

青空に映える爽やかな木造駅舎。駅舎からホームに至るまで「幸福の黄色いハンカチ」で飾られ、心が和む

筑前岩屋〜大行司間のアーチ橋「宝珠山橋梁」を行く列車。美しい橋で、夜間ライトアップを行なうこともある

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