未来に伝えたい鉄道遺産
1872(明治5)年の新橋駅~横浜駅間開業以降、全国にその網を広げ続けてきたに日本の鉄道。厳しい地理的条件を克服するために、さまざまな技術が施された場所も少なくありません。できあがった当時の社会や先人たちの苦労を、無言で語っているかのような鉄道遺産。そんな、未来にも伝えていきたい名建築を訪ねる旅に出てみませんか。
新旧スイッチバックを訪ねる
スイッチバックとは、鉄道で急勾配を上るために作られた仕組みです。
摩擦の大きいゴムタイヤと道路と異なり、鉄道は鉄の車輪と鉄のレールの小さな摩擦で走行しているため
傾斜を登ったり、傾斜で止まって居続けることが難しいという弱点があります。
そこで考えられたのがスイッチバックです。
勾配区間に見られる「山岳スイッチバック」は、大きく2種類に分類されます。
まずは急勾配を克服するために、勾配をジグザグに登り、列車を前後進させ高度を稼ぐ「折り返し型スイッチバック」。木次(きすき)線の出雲坂根駅、豊肥本線の大畑(おこば)駅などがその例です。
もう一つは、勾配の途中に水平の停車場を設けた「通過型スイッチバック」で、日本で圧倒的に多いのがこの方式です。
鉄の車輪とレールの摩擦で走る鉄道は、大量・高速輸送が出来る反面、勾配に非常に弱く、特に動力が集中した機関車列車(貨物列車など)はスリップを起こしやすいのが難点です。急峻な山岳区間では、輸送力に応じ、運転上スリップを起こさない「最急勾配」が決められますが、幹線でおおむね25‰(パーミル)前後と、自動車とは比較にならない緩い規格です。
しかし、最急勾配が連続するような場合は、途中に水平の停車場を設ける余裕など無いことが多く、「スイッチバック式停車場」が設置され、同時に輸送力も増強されました。
このように、勾配の途中に停車場を設けるためのスイッチバックが、全国にはたくさんあります。ここでは、廃止になったものも含め、その一部を紹介しましょう。
初狩駅スイッチバック
中央本線の名残のスイッチバック健在
中央本線は鉄道敷設法が公布された1892(明治25)年、東京から塩尻を経由し、名古屋を結ぶ幹線鉄道として計画されました。最急勾配は25‰で、中部山岳地帯を通るため、必然的に急峻な山岳越えが強いられます。特に中央東線と呼ばれる東京〜塩尻間には長大な笹子トンネルがあり、小仏、初狩、笹子、勝沼、韮崎、新府(しんぷ)、穴山、長坂、東塩尻の9つのスイッチバック式停車場が設けられ(後年の設置を含む)、初狩は1908(明治41)年7月に信号場として開設。2年後に駅に昇格しました。
しかし、複線化により、列車が直通できるようになるとスイッチバックは不要になり、電化の際、勾配の本線上にホームを設け、粘着性能のいい電車のみを発着させることで、中央本線は昭和40年代にほとんどのスイッチバックを廃止しました。
初狩駅も1968(昭和43)年10月に旅客ホームを25‰の本線上に設けました(当時の運輸大臣の認可を得た特例)が、同駅には首都圏路線の軌道のバラスト(砕石)を製造する砕石工場があり、ここから出発する砕石輸送列車のために、スイッチバックの施設が今でも残されています。佇まいは、ホームが無くなった程度で、スイッチバック時代からほとんど変わっていません。
かつて客車列車が機関車に牽かれ、スイッチバックで行ったり来たり。笹子では名物の「笹子餅」を買って……。そんな中央本線の一昔前の旅姿が今に甦ります。
●交通 中央本線 初狩駅下車
トレたび豆辞典
パーミル:トンネルなどの勾配を表す単位。例えば、1000メートル進んだとき25メートル上がる(または下がる)場合は「25‰」と表記。
てつどうふせつほう【鉄道敷設法】:国が建設すべき鉄道路線を定めた法律。明治25年公布。
しんごうじょう【信号場】:構内に信号設備などがある停車場。基本的に旅客の乗降は行なわれない。
ねんちゃく【粘着】:車輪とレールの接触面の滑りにくさを意味する言葉。
中山宿駅スイッチバック跡
かつての幹線鉄道の面影が濃い旧跡
磐越西線は、東京と新潟地方を結ぶ重要な交通路として、私鉄の岩越鉄道により明治期に誕生しました。上越線の全通は清水トンネル貫通の1931(昭和6)年の出来事であり、当時、新潟への幹線鉄道は、碓氷(うすい)峠を越える特殊なアプト式鉄道の信越本線があるのみでした。東京から郡山を経由し、新津、新潟を結ぶ磐越西線は、新たなルートとして大いに期待されていたのです。
磐越西線は、磐梯山麓にある中山峠を越えるため、25‰の勾配で峠を上ります。この途中にあるのがスイッチバックの中山宿駅です。中山宿駅は1898(明治31)年7月に開業し、以降、昼行、夜行、多くの列車が走りました。当初は通過が不可能な「折り返し型スイッチバック」でしたが、輸送力を増強させるため、後に通過が可能な「通過型スイッチバック」に改良されました。これにより、効率のよいスイッチバックが行なわれるようになり、その後、全国に普及しました。
中山宿駅のスイッチバックは長く活躍をしましたが、近年になると、交換する客車や貨物列車も無くなり、平成9年3月に駅からやや離れた上戸(じょうこ)側の勾配の本線上に駅を移転。普通電車のみ停車をさせ、スイッチバックは廃止されました。
スイッチバックの駅跡には雑草が生え、ホームと線路が残されています。傍らを現役の電車が通過していきますが、モーターは唸り続け、勾配の厳しさが改めて伝わってきます。
●交通 磐越西線 中山宿駅から徒歩約7分
トレたび豆知識
アプト式鉄道:左右のレールの中央に櫛の歯のようなラックレールが設置され、そこに車両の歯車をかみ合せて走行する鉄道。
姨捨駅スイッチバック
日本三大車窓の絶景を眺める
姨捨駅は、今でもスイッチバックを実施する数少ない駅のひとつです。
長野県の松本平(塩尻から松本にかける盆地)と善光寺平(長野盆地)を結ぶ鉄道で、明治期に建設されたのが篠ノ井線です。途中、山間部は避けられず、長大トンネルやスイッチバックで克服します。
篠ノ井線のほぼサミットの冠着(かむりき)トンネルまでは25‰の勾配で、スイッチバックの信号場、駅が続きます。中でも1900(明治33)年11月開業の姨捨駅は、風景の美しさでも知られ、根室本線狩勝(かりかち)峠、肥薩線矢岳(やたけ)峠と並び、日本三大車窓に数えられ、国指定の「名勝」にも指定されています。
ここから眺める善光寺平の風景は見事の一言です。善光寺平は、武田信玄、上杉謙信の「川中島の戦い」の舞台としても知られ、長野市を一望に千曲川が流れ、飯縄(いいづな)山、戸隠山、黒姫山などの北信五岳が美しくそびえます。また、棚田に月が映える「田毎(たごと)の月」など観月の名所としても有名で、松尾芭蕉が『更科紀行』で「おもかげや 姨(おば)ひとりなく 月の友」の句を詠み、句碑がホームにあります。
姨捨伝説が残る冠着山(姨捨山)は、駅南部にある標高1252メートルの小高い山で、篠ノ井線は全長2656メートルの冠着トンネルで貫いています。当時は日本一の長さを誇るトンネルでしたが、蒸気機関車の煙が乗客や機関士を苦しめ、後に排煙装置を設置。篠ノ井線の旅は難行苦行だったのです。
スイッチバックで小休止中の車窓に広がる美しい風景は、旅人たちをさぞ慰めたことでしょう。一方ならぬ、鉄道の勾配克服の苦労が偲ばれます。
- ※イラスト:熊谷江身子
- ※掲載されているデータは2010年2月現在のものです。変更となる場合がありますので、お出かけの際には事前にご確認ください。