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栄光の新幹線シリーズ(1) [東海道・山陽新幹線 0系・100系車両]昭和39年10月1日、東京〜新大阪間を結ぶ東海道新幹線が開業。ここから始まる日本の高速鉄道車両の歴史にスポットを当てて紹介します。(文=結解喜幸 写真=結解学)

What's 弾丸列車構想?

 昭和10年代に入ると東京と大陸各地を結ぶ高速列車の必要性が論じられるようになり、実現に向けた具体的な計画が練られるようになりました。当時の日本の幹線の軌間は狭軌の1.067mmで輸送量増強や高速化に限界があったため、大陸側の標準軌である軌間1,435mmを採用した新線を建設。対馬海峡に海底トンネルを掘り、東京から北京までの直通列車の運転をするという夢のような壮大な計画でした。

 昭和15年3月の第75回帝国議会において「弾丸列車構想」の一角となる東京〜下関間の新幹線建設の予算が成立しました。当時の鉄道省で策定された計画は、東京〜大阪間を4時間30分、東京〜下関間を9時間で結ぶ最高速度200km/hの高速列車を走らせるというもので、まさに昭和39年10月に開業する東海道新幹線の下地となるものでした。

 昭和16年に用地買収がスタートするとともに静岡県下では新丹那・日本坂の2つのトンネルの切削工事が開始され、昭和19年には日本坂トンネル(2,174 m)が開通。新丹那トンネルも3分の1に当たる約2,700mが切削されていましたが、戦況の悪化に伴って計画は頓挫することになりました。戦後は日本坂トンネルを東海道本線が使用することになり、この弾丸列車構想は過去のものとなってしまいました。

 弾丸列車構想が夢に終わった約10年後の昭和30年5月、国鉄総裁に就任した十河(そごう)信二氏はひっ迫していた東海道本線の輸送量増強を検討する委員会を立ち上げました。昭和31年5月に立ち上げられた委員会で検討されたもののひとつが標準軌による新幹線で、関係各機関での審議を経た昭和32年12月には東海道新幹線の早期着工が決定しました。

 昭和34年4月に新丹那トンネル熱海口で起工式が行なわれ、東京オリンピックが開幕する昭和39年10月に向けて本格的な新幹線建設がスタートしました。昭和10年代に構想が練られた弾丸列車構想の一角となる新幹線建設が、何と30年の時を経て実現することになったという訳です。なお、昭和19年に貫通した弾丸列車構想の日本坂トンネルは在来線が使用していましたが、東海道新幹線開業に合わせて新幹線が使用するようになりました。

東京オリンピック開催に合わせ東海道新幹線東京〜新大阪間が開業

 昭和39年10月、東京オリンピックが開催されることになり、これにあわせて東海道新幹線東京〜新大阪間の開業が決定しました。当時の国鉄技術者が英知を結集して世界初となる最高速度200km/hの高速鉄道を建設することになり、これまでに蓄積された技術を結集。昭和37年には鴨宮付近にモデル線が完成し、新幹線試作電車が2編成投入されました。

 昭和37年6月に完成した新幹線試作電車のA編成は1001号+1002号の2両編成、B編成は1003〜1006号の4両編成で、鴨宮モデル線において各種走行テストが実施されました。高速運転に対する問題点をクリアして量産化のスタイルが決定し、昭和39年2月から各車両メーカーで製造された量産車が登場。12両編成が30本の計360両の新幹線車両が開業の日を目指して試運転を開始しました。

 昭和39年10月1日、東京発6時の「ひかり1号」が新大阪駅に向けて出発し、世界の高速鉄道の歴史が始まりました。計画では東京〜新大阪間の所要時間を「ひかり」3時間10分、「こだま」4時間としていましたが、路盤が固まるまでの間は「ひかり」4時間、「こだま」5時間で運転。1年後の昭和40年11月1日改正から「ひかり」3時間10分、「こだま」4時間の運転が開始されました。

 なお、開業時は「新幹線電車」と呼ばれていましたが、昭和55年に東北・上越新幹線用の200系が製造されたため、それ以降は0系と呼ばれるようになっています。

昭和39年10月の開業時から平成20年までの約44年間に渡って活躍を続けてきた0系車両

0系車両で採用された3+2席配置の座席。その後の新幹線車両の標準仕様となっている

岡山・博多へ山陽新幹線が開業 幅広く活躍する0系車両

 昭和39年10月の開業時から活躍する0系は、国鉄初となる軌間1,435mmの線路上を走る全長25mの大型車体で、座席はグリーン車が2+2席配置、普通車は3+2席配置となりました。当初は一等車2両、ビュッフェ車(半室は二等車)2両を組み込んだ12両編成でしたが、昭和45年2月には大阪万博EXPO'70の開催に合わせて「ひかり」編成の16両化を実施。万国博覧会への観客輸送の増強が図られました。

 昭和47年3月15日、山陽新幹線新大阪〜岡山間が開業し、東京〜岡山間を4時間10分で結ぶ「ひかり」が登場。岡山開業では「こだま」の16両化も順次実施され、昭和48年7月には全列車が16両編成で運転されるようになりました。岡山開業時ではあまり問題になりませんでしたが、昭和50年3月の博多開業が決定すると食堂車の連結が検討され、昭和49年9月には「ひかり」編成への食堂車組込み&先行営業が開始されました。

 昭和50年3月10日、東海道・山陽新幹線東京〜博多間が開業し、東京〜博多間を6時間56分で結ぶ「ひかり」が登場。昭和55年10月改正ではスピードアップが実施され、東京〜博多間の「ひかり」は6時間40分運転になりました。

 昭和62年4月1日の国鉄分割民営化では、東海道区間がJR東海、山陽区間はJR西日本の管轄となり、各区間の輸送量に合わせた車両運用が組まれるようになりました。JR東海では「こだま」の普通車指定席の2&2シート化、JR西日本では山陽区間専用の「ウエストひかり」編成や「こだま」編成の2&2シート化および短編成化などを実施。昭和61年3月まで計3,216両が製造された0系ですが、新系列車両の増備に伴って次第に活躍の場を失い、平成20年11月30日に定期列車での運転を終了。同年12月14日の「0系さよなら運転」の実施で約44年間に及ぶ歴史に終止符を打ちました。

山陽区間のサービス向上のために0系をリニューアルして登場した「ウエストひかり」編成

東海道区間の「こだま」普通車指定席や山陽区間では0系の2&2シート化が実施された

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