01/24
WORLD HERITAGE
中尊寺金色堂
中尊寺の開山は嘉祥3年(850)、比叡山延暦寺の高僧・慈覚大師円仁による。奥州藤原氏初代の清衡による大造営は12世紀初め、金色堂は天治元年(1124)の上棟と伝わる。
金箔が押され、螺鈿(らでん)や漆の蒔絵など最高の工芸技術が結集されたその美しさは、今も訪れる人に鮮烈な印象を焼きつける。荘厳な須弥壇(しゅみだん)の中には、奥州藤原氏四代、清衡、基衡、秀衡の遺体と泰衡の首級が納められている。
02/24
中尊寺と同様、嘉祥3年(850)、慈覚大師円仁が開山。その後、二代基衡が造営に着手し、三代秀衡の代に完成。堂塔40、僧坊は500にも上ったと伝わる。現在はすべてが焼失したが、大泉が池を中心とする浄土庭園と秀衡たちが建てた伽藍遺構は、ほぼ完全な状態で保存されている。
9月中旬から下旬にかけ、境内の約500株のハギが咲き誇る。それに合わせ、国の重要無形民俗文化財の「延年(えんねん)の舞」などが見られる「萩まつり」を開催。
03/24
WORLD HERITAGE
金鶏山(きんけいさん)
平泉の中心に位置し、経塚や伝説が数多く残る。中尊寺と毛越寺の中間にあるばかりか、三代秀衡が平等院鳳凰堂(京都府宇治市)を模して建てたと伝わる無量光院(むりょうこういん 現在は跡地のみ。世界遺産登録)の建物の中心線は、この金鶏山と結ばれているという。
毎年4月13日と8月30日の前後、無量光院跡から望む夕日は金鶏山の頂上へ沈んでいく。
・平泉観光協会
04/24
兄・頼朝にうとまれ、三代秀衡を頼り、奥州へ逃げ延びた源義経。秀衡は「義経を主君となし、両人は仕えるべし」と、子の国衡・泰衡に遺言したものの、頼朝を恐れた泰衡は義経を急襲。その首を頼朝へと差し出したが、逆に奥州藤原氏の滅亡を招いてしまう……。
悲劇のヒーローとして今なお、日本人に深く愛される義経。ここ高館にあった屋敷内で自刃したと伝えられている。
05/24
HIRAIZUMI
義経堂からの眺め
高館は丘陵になっており、義経堂からは北上川の雄大な流れと束稲(たばしね)山の連山を望むことができる。義経も眺めていたかもしれないその景色を目にすると、芭蕉が詠んだ「夏草や兵(つはもの)共が夢の跡」の句がふと口をついて出る。
・高館義経堂
06/24
東北本線の一ノ関~盛岡を運行、平泉へアクセスする観光列車。墨色や金色等を貴重に、重厚感と煌びやかさを併せ持つシックなデザイン。
1号車デッキでは映像による観光案内、窓向きのペアシートや運転室越しの車窓を望む展望席もあり、世界遺産への旅行気分を高めてくれる。快速のほか、全車指定席の仙台発着など、日付限定で運行。
07/24
江戸時代から続く日本酒の蔵元。その名は大正時代に閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王殿下より「世の人々が喜ぶ酒を造りなさい」とのお言葉を頂戴したことから命名された。
大正時代に造られた石蔵を、地ビールと郷土料理やドイツ仕込みのソーセージが楽しめるレストラン、「酒の民俗文化博物館」「いちのせき文学の蔵」などとして活用。
島崎藤村や幸田露伴、終戦直後には井上ひさし一家が疎開していたなど、文学者との縁も深い。
東北新幹線一ノ関駅から徒歩12分。
08/24
GOURMET
餅膳(もちぜん)
一関地方には伊達藩時代から始まったとされる「餅文化」が継承されている。武家の年中行事は商家へ、やがて農家にも伝わったが、年貢米を納めることで精いっぱいだった農家は、くず米の粉を雑穀と混ぜた「しなもち」という餅を食べていたという。その餅をなんとかおいしく食べようと工夫した結果、300種類を数える食べ方が今も残っているのだとか。そんな文化は「餅膳」として、花巻・一関の飲食店で広く食べることができる。
09/24
ICHINOSEKI
厳美渓(げんびけい)
栗駒山を源に流れる磐井川が長い年月をかけ、巨岩を浸食した渓谷。自然と年月がつくり上げた絶景スポットは、秋には紅葉の名所となる。対岸からロープに籠を下げて送られてくる「空飛ぶだんご」も名物。
東北新幹線一ノ関駅からバス約20分。
10/24
HANAMAKI
未来都市銀河地球鉄道
宮沢賢治が生まれ、その生涯のほとんどを過ごした花巻市。宮沢賢治記念館はじめ、賢治にまつわる観光スポットには、年間、多数の賢治ファンが訪れる。
花巻駅北側には、名作『銀河鉄道の夜』を彷彿とさせる「未来都市銀河地球鉄道」の壁画が。夜になると出現するその幻想的な姿は、1994年の設置以来、人気スポットになっている。
ちなみに、JR東日本では実際に東北を走る「SL銀河鉄道(仮称)」としてC58 239を復元中!
11/24
HANAMAKI
高村山荘
昭和20年(1945)4月、空襲で東京・駒込のアトリエを焼失した高村光太郎は、宮沢賢治の弟である清六方に疎開。しかしその家も空襲に遭い、光太郎はひとりで花巻郊外のこの地に小屋を建てて移り住んだ。
現在は保存のためにうわ屋で覆われているが、一歩中に入ると、あまりの粗末さに愕然とする。戦時、国民の戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表した自分への戒めであったといわれているが、既に晩年に入っていた光太郎の目にはどんな風景が映っていたのだろうか。
12/24
毎年9月の第2土曜日を中心とした3日間に開催される「花巻まつり」は、400年以上の歴史がある、花巻を代表する祭り。
豪華絢爛な風流山車、140基を超える神輿、岩手を代表する郷土芸能の鹿(しし)踊りや神楽権現舞(かぐらごんげんまい)などが披露される。
今年は9月13~15日に開催。
13/24
ユネスコ無形文化遺産登録、国指定重要無形民俗文化財である早池峰神楽。霊峰・早池峰山は古く修験の山として知られ、正安2年(1300)には岳妙泉寺(現在の早池峰神社)が開創された。そこで修験山伏が行った祈祷の舞がこの神楽のもとになったとも考えられている。
毎月第2日曜が「神楽の日」とされ、歴史を今に伝える神楽の息遣いを間近に堪能することができる。
14/24
ひえ、アワなど雑穀の作付面積日本一を誇る花巻市では、ここ数年、雑穀をアピールするプロジェクトが熱く進行中。
第一弾の「花巻バーガー」に続き、昨年10月から「花巻ひえカレー麺プロジェクト」がスタート。ひえを使用したカレールーを開発し、それを使った麺メニューを市内飲食店が考案。そば、ラーメン、パスタとバラエティー豊か。訪れた際はぜひ試したい。
写真はホテル紅葉館内のレストラン『和鏡』考案の「稗(ひえ)カレー坦々つけ麺」850円。ツルツルの麺でいただく坦々スープと稗カレーのハーモニーは最高。
・花巻商工会議所
・ホテル紅葉館
15/24
柳田國男『遠野物語』の第91話に登場する巨石の創造物。山道を15分ほど上ったところにあり、ふたつ並んだ巨石の上に、さらに大きな石が乗っている。高さ5mほどもあり、古代人の墓とも武蔵坊弁慶がつくったともいわれている。
16/24
古い酒屋の蔵を改築した「昔話蔵」や柳田國男らが滞在した旧高善旅館を移築した「柳田國男展示館」がある。
そのほか市内には、『遠野物語』誕生のきっかけとなった佐々木喜善の記念館がある「伝承園」、遠野の文化と伝統を体験できる「遠野ふるさと村」など、遠野を感じられる施設が多数。
遠野市立博物館では「佐々木喜善と宮沢賢治 特別展」が開催中(10月6日まで)。
17/24
遠野市に伝わる郷土芸能は多い。神楽、太神楽、田植え踊り、南部ばやし、鹿(しし)踊り、さんさ踊り……。それらの踊り子が各地区から集まり、舞い踊る。今年の開催は9月21・22日、遠野駅周辺にて。写真は南部ばやし。
この他、9月10月の週末、遠野市では地元神社の例大祭が目白押し。遠野の祭りの一日を堪能したい。
18/24
GOURMET
遠野ジンギスカン
「ジンギスカンといえば、北海道!」と思ってしまいがちだが、実は遠野もジンギスカンの町。遠野では「一家に一台ジンギスカン鍋」が常識、「焼肉」といえば「ジンギスカン」というのだからビックリ。毎年8月開催の「日本のふるさと遠野 じんぎすかんマラソン」も今年で31回目。
市内の名店「ジンギスカンのあんべ」の初代が昭和30年頃に出店したのが始まりとか。焼いた肉をタレにつけて食べるスタイルで、自家製タレに各店ならではの工夫を凝らしている。
19/24
標高1,628mの栗駒山の八合目、1,126mに佇む雲上の温泉宿。そんな高所にありながら、江戸時代から湯治場として栄えていたという。
1泊2食付き11,000円~(平日2名利用時の1名料金)。
白濁した強酸性の湯、100%かけ流しの風呂は日帰り入浴も可(内湯9~16時・露天風呂5~21時、600円)。
20/24
泉質のよさと広さが自慢。写真は大露天風呂。雲上の入浴を心ゆくまで堪能できる。
また「おいらん風呂」と呼ばれる蒸し風呂もある。蒸気の噴出口にムシロを敷き、その上に横たわるもので、昔から湯治客に親しまれてきた。
21/24
花巻は奥羽山脈の渓谷沿いに数々の温泉が湧く日本有数の温泉郷。その中のひとつ、大沢温泉は宮沢賢治も生涯を通じて訪れていた温泉。
中でも山水閣は、高村光太郎がしばしば宿泊した宿。現在では光太郎のお気に入りの部屋が「牡丹の間」として復元され、人気を集めている。
1泊2食付き14,850円~。牡丹の間は18,000円~(ともに、平日2名利用時の1名料金)。
22/24
山水閣の大浴場「山水の湯」。アルカリ性の単純泉で、秋にはみごとな紅葉が楽しめる。宿の横を流れる豊沢川のすぐ横にはかけ流しの混浴露天風呂「大沢の湯」も。
日帰り入浴600円(7時30分~20時30分。「山水の湯」と貸切家族風呂は利用不可)。
23/24
花巻温泉郷の人気温泉のひとつ、鉛温泉の名旅館。
約600年前、当主・藤井家の祖先が、白猿が木の根元から湧き出す泉で手足の傷を癒しているところを目撃。それを温泉と知り、仮小屋を建てたのが始まりと伝えられる。
木造三階建て、総けやき造りの本館は絵になる佇まい。1泊2食付き9,000円~(平日2名利用時の1名料金)。
24/24
名物「白猿の湯」は水深1.25m。日本一深い、立って入る湯だ。全身にずっしりとかかる水圧が心地いい。混浴だが、女性専用時間もある。
このほか、5本の源泉を有し、館内5つの風呂はすべて100%源泉かけ流し。「新日本百名湯」「日本温泉遺産」にも選出。
日帰り入浴700円(7~21時)。
※自動表示のほか、スライド左右にマウスを置くと表示する矢印をクリックすると前後の画像へ移動します。
富士山の世界文化遺産登録に沸く今年。岩手県・平泉は世界文化遺産登録から2年を迎えました。
時は平安時代末期、天皇・貴族の時代から武士の時代へ。歴史の大きな転換点を目前に、金の産地であり、北方交易など地の利のある陸奥(むつ)は、朝廷からの富への関心と「みちのく(道の奥)」としての蔑視にさらされる宿命にありました。
前九年の役(1051~62)、後三年の役(1083~87)という2つの争いを経て、陸奥・出羽を治めることとなったのが奥州藤原氏初代・清衡(きよひら)。それまでの人生、争いにより父や妻子をはじめ、たくさんの命が失われるのを見てきた清衡は、館を移した平泉に「仏の教えによる平和な理想社会」を築こうとしました。
中尊寺の大規模な造営がその第一歩。平泉が世界文化遺産に「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として登録された背景には、清衡に続く基衡、秀衡、親子三代にわたる平和への切なる願いが込められているのです。
秀衡の死後、平泉は武家の棟梁となった源頼朝により滅ぼされます。平泉の高い文化、とりわけ中尊寺の素晴らしさに胸打たれた頼朝により堂宇の保護はなされたものの、建武4年(1337)の火災や風雪により多くの建造物が失われました。今は跡を残すのみのその姿がかえって清衡たちの痛切なる願いを私たちの胸に訴えかけてくるようです。
時代は下り、平泉は多くの文人が訪ねる場所となりました。「五月雨の降り残してや光堂(ひかりどう)」と中尊寺金色堂を詠んだのは、江戸時代の俳人・松尾芭蕉(1644~94)。この地を訪ねた芭蕉は、紀行文『おくのほそ道』に「三代の栄耀(えいよう)一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり」と記し、奥州藤原氏の悲劇的な末路に思いを馳せています。
「七重(しちじゅう)の舎利(しゃり)の小塔(こたう)に 蓋(がい)なすや緑(りょく)の燐光」で始まる『中尊寺』という詩をつくったのは、童話作家で詩人の宮沢賢治(1896 ~1933)です。今年9月21日は、賢治の没後80年の命日。賢治が生まれ、37歳という短い生涯を終えた花巻市では、毎年、命日であるこの日、桜町にある賢治の「雨ニモマケズ」の詩碑前に大勢のファンが集い、「賢治祭」が行われます。
現代に生きる私たちの心をとらえて離さない、賢治の作品の魅力。それが認められたのは、悲しいことに彼の没後でした。賢治と手紙を通じて親交を深めた詩人の草野心平(1903~88)の尽力が大きいといわれています。花巻の地を旅して感じるのは、賢治という人間が確かに生きた証。そこには、さまざまな人々とのつながりがありました。
民俗学者の柳田國男(1875~1962)が『遠野物語』を書いたのは、遠野出身の学生・佐々木喜善(きぜん 1886~1933)と出会い、遠野で語り継がれる民話を聞いたのがきっかけです。この喜善、郷里に帰った後、賢治と親しく交友しているのです。奇しくも、賢治が亡くなった8日後の9月29日、喜善も46歳でこの世を去りました。
賢治、喜善とも晩年は経済的に不遇であり、病弱でもありました。2人がそれらを押してたびたび会っていたのは亡くなる前年のこと。そこには、どんな心の結びつきがあったのでしょうか。
もうひとつ、戦時中、花巻に疎開していた詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)。その疎開先というのが宮沢清六方。なんと賢治の弟であり、賢治の生家に身を寄せていたのです。
意外な人の意外なつながりを知り、点と点が線につながる楽しみを知る。それも旅の醍醐味といえるかもしれません。
写真提供=一関観光協会、平泉観光協会、中尊寺、世嬉の一酒造株式会社、花巻市観光協会、
花巻市起業化支援センター、遠野観光協会、とおの物語の館、須川高原温泉、大沢温泉山水閣、
鉛温泉藤三旅館、交通新聞サービス
※掲載されているデータは2013年8月現在のものです。