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茶屋町駅を宇野に向かって出た宇野線の東の車窓には、ヨーロッパの穀倉地帯を思わせる豊かな田園風景が広がる。ほとんど起伏のない線だが、八浜駅を出ると隧道(ずいどう)に入る。これが 昭和30年前後、宇野線で蒸気機関車を走らせていた石田敬一さんのお話に出てきた勾配のきつい尾坂峠の隧道だ。昭和35年の宇野線電化の折に付け替えられて現在は難所ではないが、当時は大変だったらしい。連絡船からの貨車を引いて岡山駅に向かうときは、宇野駅を出てすぐに上り坂になる。機関車に水蒸気をいっぱい貯めて「さぁ、行くぞ!」と気合いをいれて発車したのだという。ボヤボヤしていたら力の弱い機関車では列車が止まってしまうからだ。
蒸気機関車は動かすのも止めるのも機関士の「カン」がモノを言う。「体で覚えるしかなかったですね」という石田さんの体は、今もその「カン」を覚えているような気配だ。少年時代は飛行機を造りたかったという石田さん。空は飛べないが人の手で動く蒸気機関車が可愛くて仕方ないといった表情が時折表れる。
宇高連絡船が列車を運ぶようになったのは大正時代。石田さん自身、船との接点は深くなかったが、宇野駅の思い出は戦時中のこと。「万歳」の声に送られて出征していく兵隊さんが家族や友人と名残を惜しめるように機関車をゆっくり動かし始めたりしたことだという。宇野線を今も大切に語る人たちがいる、というのもこんな温もりある思い出を持つ人たちが多いということなのかもしれない。
元々、宇高連絡船は幹線交通路であった。山陽新幹線岡山開業以前は、大阪から特急「うずしお」や急行「鷲羽」が宇野に直行。東京からも寝台急行(後に特急になる)「瀬戸」が直行し、高松への船に接続。四国への玄関口・宇野駅は、今の宇野駅からは想像できないほど繁多な駅だった。連絡船の最盛期(昭和30~40年代)の盆や暮れの混雑ぶりは、宇野桟橋に「マラソン桟橋」と異名がつけられたほど。船を下りた乗客が列車の座席をとるために250mの長~い桟橋を猛ダッシュするのだ。
その桟橋の責任者が桟橋助役を務めていた玉積正雄さん。助役の仕事はそんな乗客の安全を図り、列車を積み込む可動橋を操作し、天候の判断をし、操業中の漁船にも細心の注意を払う。神経がすり減る仕事だったけれど、そばには四季それぞれに、あるいは時間によっていろんな表情を見せてくれる瀬戸内海があった。
「『こんな美しい海を眺めながら働ける私はしあわせ者だ』といつも思っていました。瀬戸大橋開通でいよいよ連絡船最後の日、『レールが繋がれば船は終わりだ』ということがにわかに実感となりました。最後の連絡船で高松に渡り、帰りは瀬戸大橋で海を渡る……。見慣れた美しい海は、アッと言う間に過ぎてしまっていました」。 否応のない新しい時代の到来だった。が、再開発事業で今また宇野港には、3万t級大型客船が着岸できる近代的なバースが誕生した。「人流港」となるべく新しい期待が集まっている。
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宇野線と宇高連絡船が6月12日に開業100周年を迎えるのを記念して、様々な限定グッズを発売。記念入場券やフレーム切手をはじめ、連絡船に乗船したことがある人には懐かしい幕の内弁当やあなご飯などの復刻駅弁、「讃岐丸」「伊予丸」「土佐丸」「阿波丸」の4船シリーズによる宇高連絡船うどんなど多彩なラインナップだ。さらに、6月30日まで宇野線&宇高連絡船を体感する旅に便利なトクトクきっぷ「宇野線・宇高航路100周年物語きっぷ」も発売中。
父親の勧めで昭和14年国鉄入社、蒸気機関車の機関士になる。機関士は丈夫な体と頭、そして勘が必要、という条件を充たした鉄道人生。定年前の4年間は岡山電車区の研修所助役として後輩を育てた。緻密な頭脳は益々磨きがかかり、好きな蒸気機関車の模型作りにも精を出す。
昭和17年国鉄関釜(かんふ)連絡船に入社。終戦後、軍隊から帰還し、昭和24年に宇野桟橋転勤。“瀬戸内海の女王”といわれた「鷲羽丸」に乗船した後、再び宇野桟橋勤務。桟橋助役で定年を迎える。愛する「鷲羽丸」の90分の1模型を60代で、80代で100分の1模型を完成させた。
取材・文:西本梛枝
※掲載されているデータは平成22年6月現在のものです。