1970(昭和45)年10月から始まった「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンでは、当時としては斬新なイメージ戦略が功を奏して、日本人のレジャー熱に火が点いた。キャンペーンのキャッチフレーズ「美しい日本と私」のとおり、旅をすることで今まで知らなかった日本を、ひいては自分自身を発見しようと、多くの人が各地を訪れた。
イメージ戦略の後に、すかさず実用的な戦略として繰り出されたのが「ミニ周遊券」だ。周遊券(指定地域への往復乗車券&指定地域内で急行が乗り降り自由)自体は、昭和30年代からあったが、指定地域が「北海道」や「九州」と範囲が広く、時間に余裕があってじっくり回らないと、おトク感が得られなかった。そこで、範囲を狭く価格を下げて、より手軽になったのが「ミニ周遊券」である。
元となっているのは、1970年開催の日本万国博覧会(大阪万博)のさいに発売された、期間限定で関西の国鉄区間が乗り降り自由の「万国博記念回遊券」で、これはのちの「京阪神ミニ周遊券」につながっている。発売初期は、青森・十和田、秋田・男鹿、山形・蔵王と、東北地方を周遊地にしたものが多かった。のちにコース設定は全国に広まり、発売1年で100万人が購入したといわれている。
70〜80年代の時刻表を見ると、こうした周遊券の情報は載ってはいるのだが、より目立っているのが「エック」というものだ。「新幹線ビジネスエック」「秋のエックのご案内」など、毎号必ずといっていいほどに掲載されている。今は耳慣れない響きだけに、いったいエックって何? と気になることこの上ない。
「エック」とは、「エコノミークーポン」の略で、国鉄が旅行会社に委託して販売されていた。目的地までの指定された列車の往復乗車券、昼食、観光施設の入園料などがセットになっていて、「みかん狩りと湯河原温泉」「富士急ハイランドスケート」など、パック旅行のような趣がある。
観光だけではなく、「新幹線ビジネスエック」は、新幹線の特急券と主な駅の周辺ホテルの宿泊券がセットになったものだ。宿泊するホテルによって、料金は変わってくる。
当時、国鉄は旅行業者の資格をもたず、エックは旅行会社に委託されていた商品だったが、民営化されてJR各社が旅行業務取扱資格を得たため、エック自体は消滅した。
「ディスカバー・ジャパン」は76(昭和51)年いっぱいで終了し、翌年から「一枚のキップから」というキャンペーンが始まる。ただしこれは、この時期に国鉄が大幅な運賃値上げをしたこともあって、不発に終わる。
そして78(昭和53)年11月から始まったのが「いい日 旅立ち」キャンペーン。この言葉を耳にすると、まずは山口百恵の歌が浮かぶ。歌がはじめにあったと思いがちだが、“いい日 旅立ち”というキャッチフレーズがまず決まり、それを山口百恵の新曲のタイトルに、作詞・作曲は谷村新司、という流れで、当初からキャンペーンソングとして作られたものだった。山口百恵はCMにもポスターにも登場せず(赤字の国鉄にはそのギャラを払えなかった)、曲の大ヒットと共に、国鉄のキャンペーンも広まっていった。
「いい日 旅立ち」は「ディスカバー・ジャパン」の第二部、といったところだったが、いちばんの違いは、目的地を明確にしたことである。同時期に、現在も続いている「デスティネーションキャンペーン」(JRグループ6社とキャンペーン開催地の自治体・旅行会社等が協力し、3〜4カ月間繰り広げられる。「デスティネーション」とは“目的地”の意)が始まったこともあり、ポスターにはロケ地を明記し、地域性をアピールした。「ディスカバー・ジャパン」の広告が、“美しい日本と私”からイメージされた麦畑や寺の本堂などといった写真だったのとは、この点で大きく違う。キャンペーンは5年続き、時刻表の表紙には流れ星風のロゴも添えられた。
1980(昭和55)年11月からは、「振りむけば君がいて——いい日 旅立ち・人生その2」という、いささか長いタイトルのキャンペーンが始まる。これは、国鉄と日本航空が共同で行い、44歳以上の熟年夫婦を対象にしたものだった。それまでのキャンペーンが、どちらかというと20代の若者向けだったのに対して、もう少し上の、つまりはお金が比較的潤沢にある層をターゲットにしたといえるだろう。子育てが一段落したところで(現在だと44歳はまだまだ働き盛りというイメージではあるが)、夫婦水いらずの旅行をしてもらおうという趣旨で、『大時刻表』80年11月号に掲載されている紹介文には「夫婦二人きりのムーディな商品」とある。
キャンペーン開始後1年余りで日本航空はスポンサーからはずれ、国鉄単独で続けていくことになる。そこで考え出されたのが、グリーン車の利用だった。こうして、よりラグジュアリーを前面に押し出してつくられたのが、「フルムーン夫婦グリーンパス」(81年10月〜現在)である。
夫婦ふたりの年齢が合わせて88歳以上、国鉄全線のグリーン車が乗り降り自由、というこのきっぷは、上原謙と高峰三枝子という戦前・戦後の日本映画界を代表する二大スターを広告に起用することで、非日常でトクベツ感あふれるものとして認知されていく。華美ではないが上質な服を優雅に着こなし、高峰“妻”が艶然とほほえむ姿を見守る、ロマンスグレー上原“夫”が並ぶポスターは、今見ても尋常ならざる輝きがあり、家庭や子どもといった日常のしがらみを一気に吹き飛ばす威力がある。
フルムーンパス購入時には夫婦である証明は特に必要なく、極端なことを言えば夫68歳・妻20歳でもいいわけで「愛人旅行でもいいのか」という声も国鉄内部にあったという。そうしたマイナスの声を逆手にとり、芸能界のおしどり夫婦ではなく、あまりに絵空事な二人を起用したことで、「夫婦二人きりのムーディ」がかえって現実味を帯びたのではないだろうか。
このきっぷは、秋から翌年春にかけて発売され、通年販売ではないにも関わらず、約2年で2万枚を売り上げ、現在も続くロングセラーとなっている。
80年代前半は、「フルムーン夫婦グリーンパス」をはじめ、「青春18のびのびきっぷ(現・青春18きっぷ)」(82年3月〜現在)、「ナイスミディパス」(83年3月〜09年終了)と、ヒット商品が続く。
「青春18のびのびきっぷ」は5日間、国鉄全線の普通列車と一部鉄道連絡船に乗り降り自由、というもので、現在も「青春18きっぷ」として続いている。名前から若者向けと誤解されがちだが、年齢制限はない。名前には、誰でも鉄道旅の原点に戻った“青春”を味わうことができる、という意図が込められているという。
「ナイスミディパス」は、30歳以上の女性2人または3人のグループで、国鉄全線グリーン車乗り降り自由という、「フルムーン夫婦グリーンパス」の女性同士版のようなものだった。「ナイスミディ」は「ナイスミドル」の女性版の造語で、大時刻表83年4月号には、「今年はナイスミディ旋風が起きそう」とある。今でいう「アラサー」「アラフォー」のさきがけだったのかもしれない。
これらのきっぷは、鉄道の旅のひとつの提案でもあった。「ある目的地へ行く」という従来の旅に加えて、「○○のきっぷを使って、ある目的地へ行く」、もしくは「○○のきっぷを使う」だけが目的で、行き先というよりはその行程を楽しむ、という旅だ。グリーン車に乗る贅沢、普通列車にしか乗らない質素、どちらにも鉄道の楽しみがある。「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンが、ライフスタイルや流行をつくったように、“「きっぷ」が旅をつくった”のである。
(つづく)
『大時刻表』83年4月号表紙には、「フルムーン夫婦グリーンパス」女性同士版というべき「ナイスミディパス」発売の告知と、女性3人をあしらった同ロゴ入り。当時の宣伝には、野際陽子・菅井きん・泉ピン子のトリオが起用された
文:屋敷直子
参考文献:
『鉄道黄金時代〜「ディスカバー・ジャパン」の光と影〜(図説日本の鉄道クロニクル7巻)』講談社
『「ディスカバー・ジャパン」の時代 新しい旅を想像した、史上最大のキャンペーン』森彰英/交通新聞社