夜行列車といえば寝台、しかも個室でデラックス。チケットは高価なうえに入手困難だが、一生に一度は乗ってみたい。というのが、いまのイメージかもしれない。当初の売りであった「夜、寝ている間に移動することで時間を節約する」という意義はほとんど失われ、新幹線や飛行機で行くよりはるかに時間をかけた贅沢で特別な旅を演出するものといえるだろう。
『JR時刻表』2011年10月号をみると、寝台特急のページはわずかに1ページ。「トワイライトエクスプレス」(大阪〜札幌)、「日本海」(大阪〜青森)、「カシオペア」(上野〜札幌)、「北斗星」(上野〜札幌)、「サンライズ瀬戸」(東京〜高松)、「サンライズ出雲」(東京〜出雲市)、「あけぼの」(上野〜青森)の7本で、このほかに夜行急行として「きたぐに」(大阪〜新潟)、「はまなす」(青森〜札幌)がある。
寝台特急のダイヤは上記のページ以外にも、東海道本線、上越線、東北本線といった在来線の各ページにも赤字で記されている。まず寝台列車を表す流れ星のマークが目に止まり、長距離列車ならではの多くの「レ」(通過の印)を指でたどり、1ページでは納まりきらないダイヤを追って次々にページをめくっていく。A寝台に乗ったつもり、朝な夕なに食堂車に行ったつもり、と妄想は果てしない。時刻表で机上旅といえば、やはり夜行列車がいちばんと個人的には思っている。
夜行列車の思い出としてよく話題にあがるのは寝台特急「あさかぜ」だろう。1956(昭和31)年11月、東海道本線が全線電化されたのを機にデビュー、東京〜博多を17時間25分で結んだ。下りは東京18時30分発・博多11時55分着、上りは博多16時35分発・東京10時着と、まだ航空機が一般的ではなかった当時、夜間を有効に使えるとしてビジネスマンを中心に大いに好評を博した。
2年後には“動くホテル”と言われた20系客車が導入されて遮音性が増すなど乗り心地が飛躍的に改善、また青い車体に白線の帯という車体デザインも美しく、人びとの心に深く刻まれる列車となった。寝台列車のことを“ブルートレイン”と呼ぶのは、この20系客車が端緒となっていて、単なる移動手段に加えて、旅情や追憶の象徴として記憶されていくことになる。
こののち、「はやぶさ」(東京〜西鹿児島)、「さくら」(東京〜長崎)、「みずほ」(東京〜熊本)といった寝台特急が次つぎに新設され、東京〜九州の旅客輸送が整備されていく。また、東京〜関西間では「月光」「銀河」「彗星」「明星」(夜走るだけに星や宇宙にまつわる命名が多い)、関西〜九州間では「ひのくに」「日向」「平戸」などが走っていて、日本の夜の鉄路はなかなかにぎやかだったといえるだろう。
1964(昭和39)年10月1日、東海道新幹線が開業する。『大時刻表』(64年10月号)を見ると、東京〜新大阪までの新幹線ダイヤの下に、そこから接続する特急や準急、急行が書いてあって、長いものだと東京から鹿児島まで、じつに1500km超を1行で表していることに目をみはる。
夜遅くに東京を出発した新幹線が接続するのは必然的に寝台列車になる。例えば、東京発18時30分の新幹線「こだま123号」が京都に到着するのは23時02分、そこから23時13分発の寝台特急「さくら」に乗り継ぐと翌12時28分に長崎に到着。ちなみに「さくら」が東京を出発するのは16時35分なので、新幹線が開通したことでおよそ2時間早く到着することが可能になった。
ところで、上記の新幹線は新大阪行きなのだが、乗り継ぐ「さくら」は新大阪に停車しない。京都で接続するものの、当時は新幹線から寝台特急という乗り継ぎは一般的ではなかったのだろう。翌年にようやく、新大阪〜西鹿児島・長崎を結ぶ「あかつき」が新設されて、新幹線とスムーズに接続する寝台特急が登場した。
一方で、東海道新幹線の登場で列車がスピードアップし、わざわざ夜に移動しなくとも昼に走っている列車で事足りてくると、夜行列車の地位が危うくなってくる。そして、「彗星」「月光」など東京〜関西間の列車が徐々に廃止されていった。
余談ではあるが、この月の時刻表には航空ダイヤの時刻も掲載されている。見ると、東京と九州をつなぐのは東京〜福岡便しかなく、直行便は1日に2便のみ(所要時間は1時間30分)。たいていの便は大阪に“途中停車”して所要時間は3時間20分。飛行機もまだまだ発展の途上にあったのだろう。
次に目を向けるのは東北である。
九州や関西方面と比べると、東北方面は寝台でも夜行急行が多かった。「八甲田」「津軽」(上野〜青森)、「北星」(上野〜盛岡)、「青葉」(上野〜仙台)、「おが」(上野〜秋田)などである。常磐線を経由する「十和田」「おいらせ」(上野〜青森)などもあった。
そんななかで、1964(昭和39)年に20系客車を使ってデビューしたのが寝台特急「はくつる」(上野〜青森、東北本線経由)だ。翌年には寝台特急「ゆうづる」(上野〜青森、常磐線経由)も新設された。
以降、寝台特急は全盛期を迎えることになる。1968(昭和43)年ごろには、それまで細々と走っていた夜行の普通・急行列車は徐々に廃止、夜行列車といえば寝台特急という時代に突入していく。
70年代に入って大阪万博、それに続くディスカバー・ジャパンキャンペーンが始まると、「あけぼの」(上野〜秋田)など、当初は季節臨時列車だったものが、好評につき定期運行化されたりした。全盛時代は、1975(昭和50)年3月の東海道・山陽新幹線の博多開業の前夜まで続く。博多開業によってダイヤ改正が行われ、寝台特急は本数を減らすことになるのだが、『大時刻表』75年3月号を開くと、それでも寝台特急の流れ星のマークがあちこちに煌めいている。
東京から山陽・九州方面へは「さくら」「はやぶさ」「みずほ」「富士」「あさかぜ」「瀬戸」と巨星がひしめくのを皮切りに、山陰方面へは「出雲」「いなば」、紀勢方面へ「紀伊」。東京駅の12、13番線は連日、16時30分発「さくら」を頭に寝台特急が次つぎに発車していったのだろう。時刻表を見ていると、そのざわめきが聞こえてくるようである。
上野発も忘れてはならない。奥羽方面へ「あけぼの」、北陸方面へ「北陸」、さらに北の大地へ「ゆうづる」「はくつる」「北星」が行く。
名古屋・大阪から九州方面へは「明星」「彗星」「あかつき」「なは」「安芸」「金星」と、これもにぎやか。そして日本海側には「つるぎ」「日本海」が走っていた。
全盛時代はあまり長くは続かなかった。1日数往復していた列車が1往復になったり、列車自体が廃止になったりする。1982(昭和57)年6月の東北新幹線(大宮〜盛岡)、11月の上越新幹線(大宮〜新潟)の開通の余波は大きく、格下げや減便が相次ぐ。
1988(昭和63)年3月、国鉄がJRになって初めてのダイヤ改正で寝台特急「北斗星」がデビューした。青函トンネルが開通して津軽海峡線が開業、本州と北海道を直通する待望の列車だ。
この月の『JR編集・時刻表』88年3月号を見ると、北斗星は1日2往復(ほか1往復は季節列車)、およそ16時間で上野と札幌をつないでいる。このころになる航空機のダイヤも整備され、東京〜札幌は1日28往復、所要時間は約1時間30分。時間的にはまったくかなわないが、シャワー室・洗面台・トイレを完備した1人用A寝台個室「ロイヤル」と、1人用B寝台個室「ソロ」という、「北斗星」だけの新型寝台車がついていて、まさに “平成の動くホテル”ともいうべきものだった。時代はバブル景気である。寝台列車が“実用”から“贅沢”へと転換しはじめたきっかけといって良いかもしれない。減便はあったものの現在に至るまで人気の列車である。
以降、寝台特急はラグジュアリーの時代に入り、「トワイライトエクスプレス」(89年7月)、「サンライズエクスプレス」(98年7月)、「カシオペア」(99年7月)と、どれもデビュー月の時刻表には、巻頭カラーで部屋の種類とその内装を大特集している。
そしてその陰では、続々と旧設備の列車が廃止されていった。2004(平成16)年の九州新幹線開業を境に、「さくら」「あさかぜ」「彗星」「あかつき」「なは」「はやぶさ」「富士」と、まさに怒濤の勢いであった。
団塊世代にとっては、故郷から大志を抱いて上京、都会に疲れて這々の体でふるさとに舞い戻る、両親に嬉しい報告を伝えに帰る、そういった人生の思い出が凝縮されているのが夜行列車ではないだろうか。その世代の父は、「能登」の話をよくしてくれた。一方の団塊ジュニアのわたしにとっては、夜行列車といえば豪華寝台列車。いつの日が「カシオペア」や「トワイライトエクスプレス」に乗って、始発から終点までをみっちりじっくり楽しむのが夢である。どちらにせよ、長距離を夜走る列車には、人びとの濃密な思いが詰まっているのだ。
(おわり)
サンライズエクスプレスこと「サンライズ瀬戸・出雲」がデビューした98年7月、「カシオペア」がデビューした99年7月の『JR時刻表』の表紙。寝台列車が新設・増設された60〜70年代の表紙では、新幹線を除いて列車が表紙を飾ったことは特になかった。
文:屋敷直子
参考文献:
『時刻表でたどる夜行列車の歴史』(JTBパブリッシング)