沼隈(ぬまくま)半島の東にある後山(うしろやま)公園展望台から鞆(とも)の浦を望む。眼下には瓦屋根の歴史薫る町並み、沖には濃緑の仙酔島(せんすいじま)、そして瀬戸内の海とかすむ島なみ――名曲『春の海』が本当に聴こえてきそうなこの穏やかな瀬戸内の風景を見ていると、日本初の蒸気船同士の事故「いろは丸事件」やその激しい談判が行なわれた地であるとは、にわかに信じがたい。
が、慶応3年(1867)4月23日の午後11時頃、その事故は起こった。鞆の浦のすぐ目鼻先にある備中六島の沖で、海援隊が大洲(おおず)藩から借り受けていた「いろは丸」の右舷に紀州藩の「明光丸」が衝突。「明光丸」が再度「いろは丸」にぶつかった後、そこからやや西に離れた宇治島沖で「いろは丸」はついに沈没してしまった。
同年同月に土佐藩の後援を得て、社中から海援隊へと再出発したばかりの龍馬としては、まさに出鼻をくじかれたかたち。悲しみは強かったに違いない。「明光丸」で鞆の浦に上陸した紀州藩士と海援隊は、この地で4日間、激しい談判を繰り広げることとなる。
最初の談判は、紀州藩が宿舎とした圓福寺(えんぷくじ)と海援隊が宿舎とした廻船問屋・桝屋清右衛門宅の中間にある魚屋萬蔵宅で行なわれた。しかし、徳川御三家の紀州藩は海援隊をみくびったのか、なかなか非を認めない。龍馬はお龍に宛てた手紙でも「紀州藩の奉行や船将は女性の言い訳のようになり、議論をしてもきりがない」といった意味のことを書いている。交渉の場を時おり福禅寺の対潮楼(たいちょうろう)に変えてさらに激論を交わすも、交渉は決裂。紀州藩士たちは藩命を楯に、龍馬たちを残して「明光丸」で長崎へ向かってしまう。
その後、談判の場は長崎に移動。龍馬たちは万国公法という国際ルールを持ちだすなどして交渉を優位に運び、ついに8万3000両という賠償金を勝ち取った。
昭和63年に福山市の沖で「いろは丸」らしき船が発見され、その後の調査で引き揚げた資料の年代からほぼ「いろは丸」と断定された。交渉時、龍馬は最新型のミニエール銃400挺を積んでいたと紀州藩に主張していたが、この引き揚げでは一挺も見つかっていない。恐らく、龍馬のはったりだったと思われる。こうした駆け引きは、龍馬ファンからすると彼の妙味だったりするのだ。