平安時代から南北朝時代まで、武蔵国で勢力を誇った武士・河越氏。常楽寺は河越氏の持仏堂が起源といわれる。河越重頼や、源義経に嫁ぎ京姫ともてはやされた娘の郷御前(さとごぜん)、さらに北条氏の川越支配後に領主となった重臣・大道寺政繁らの供養塔もある。
武士・河越氏の居館跡である
河越館跡史跡公園。河越氏の衰退後、15世紀末に山内上杉氏が陣所を構えた。昭和になって、10回以上にわたる発掘調査が行なわれ、中世の武士の実態を解明する上で重要な国指定史跡となっている。
川越城は、長禄元年(1457)、扇谷上杉持朝(おうぎがやつうえすぎもちとも)が家来の太田道真・道灌(どうかん)父子に築城させた城。寛永16年(1639)に城の大拡張整備が行なわれた際に、戦いを想定して造られた13の門のうちのひとつが中ノ門で、その
堀跡は旧城内に現存する唯一の堀跡。
喜多院の境内にあり、日本三大羅漢のひとつといわれている。人間の喜怒哀楽をよく表した等身大の石仏500体余りが一堂に集められ、実に壮観だ。TEL.049-222-0859(喜多院)
嘉永元年(1848)に再建された16棟、1025坪におよぶ壮大な
川越城本丸御殿の一部。家老詰所には協議する家老の人形などが設えられ、往時の雰囲気が味わえる。開館時間:9:00?17:00 休:月曜・第4金曜・年末年始 入場料:100円(川越市立博物館・蔵造り資料館との共通入館料300円) TEL.049-222-5399(川越市立博物館)
慈覚大師が天長7年(830)に創建した天台宗の名刹・
喜多院。江戸城から移築された「客殿」(三代将軍家光誕生の間)や「書院」(家光の乳母、春日局化粧の間)など、徳川家ゆかりの文化財を所蔵。拝観時間:8:50~16:00 休:年末年始ほか 拝観料:400円(客殿・書院・本堂・五百羅漢等の拝観コース) TEL.049-222-0859
川越線西川越駅から北西に進み、入間川を渡ると、上戸(うわど)小学校に隣接して河越館跡史跡公園が広がっている。ここ川越市上戸周辺は、7世紀初頭には有力豪族の墳墓(牛塚古墳)が築かれ、律令時代には入間郡の役所が置かれるなど、古くから地域の政治の中心地であった。
平安時代の末になると、武蔵国で勢力をふるった坂東八平氏(ばんどうはちへいし)のひとつである秩父氏一族の秩父能隆と孫の重頼が、大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)から拠点を移し、館を建てて河越氏を名乗った。
鎌倉時代には、河越氏は源頼朝政権下で武蔵国筆頭の御家人として権勢を誇り、河越重頼の妻は頼朝の子・頼家の乳母に、娘の郷御前は頼朝の弟・源義経の正室に、嫡男の重房は義経の側近になるなど重用された。ところが頼朝と義経が対立すると、義経の縁戚という理由で重頼、重房の父子は誅殺され、武蔵国留守所総検校職の地位も奪われてしまった。
史跡公園の北端に立ち広大な館跡を見渡すと、常楽寺の森の方から、馬に跨った坂東武者が現れるかのようであった。河越館跡の歴史がよくわかる案内板や園内に残る井戸跡などを眺めながら、常楽寺まで歩く。境内裏には栄華の果てに頼朝に殺された河越重頼はじめ、義経を追って平泉に落ち、命を落とした郷御前の供養塔がさびしく佇んでいた。
室町時代になると、河越氏を中心とする平一揆と関東管領が対立し、河越直重らは河越館に立て籠って反逆するが、敗北。以後、河越氏は歴史の表舞台から消えてしまう。その後15世紀の半ばに、扇谷上杉氏は足利氏と北武蔵の覇権を争う攻防に備えて、現在の本丸御殿が残るあたりに川越城を築城した。だが16世紀初頭から半ばかけて、4度にわたる北条氏との抗戦の末、陥落。以後、川越城は北条氏の武蔵国支配の拠点となった。
江戸時代になると、武蔵国一の大藩となった川越藩は江戸の北の守りとして重要視され、幕府の重臣や御家門が配された。17世紀の初頭、松平信綱が藩主となると川越城の大規模な拡張工事を行い、総面積約9万9千坪(32万6千平方メートル)の巨大な城郭を築き上げた。そして幕末には、松平斉典が火事で消失した二の丸御殿の代わりに本丸御殿を再建した。今に残るのは玄関と大広間、移築された家老詰所だが、国内に現存する貴重な本丸御殿大広間だ。
こうしたことから、川越では江戸時代を通して学問や商工業が発達し、江戸に勝るとも劣らない文化が栄えた。「小江戸」と呼ばれるようになったは、このためである。
寛政8年(1796)、養寿院の門前町である当地で、鈴木藤左衛門が江戸っ子好みの気取らない菓子を製造したのが始まり。関東大震災で被害を受けた東京に代わり、千歳飴やかりんとうなどの製造を続け、昭和初期の
菓子屋横丁には70軒以上が並んだという。
約400年前に往時の川越藩主・酒井忠勝が創建したと伝えられる
時の鐘。現在の鐘楼は4代目で、明治26年(1893)の川越大火後に再建されたもの。いまも1日4回(6・12・15・18時)、川越の町に懐かしい時の音を響かせている。
明治26年の川越大火後、防火対策として商人たちは競って蔵造りの店を建築した。
蔵造り資料館は、当時、煙草卸商を営んでいた小山文造(屋号は万文)が建てた店蔵で、川越の蔵造り家屋独特の意匠や構造を体感できる。
開館時間:9:00?17:00 休:月曜・第4金曜・年末年始 入場料:100円(川越市立博物館・川越城本丸御殿との共通入館料300円) TEL049-222-5399(川越市立博物館)
入間川や荒川で獲れたうなぎと、名産の醤油を使い、天保3年(1832)に開業した老舗
うなぎのいちのや。美味しさの秘訣は代々受け継がれてきた秘伝のタレ。
営業時間:11:00?21:00 無休 TEL.049-222-0354
川越で約250年にわたり、昔ながらの醸造法によって醤油の製造を続ける
松本醤油。江戸時代から使われている40本の杉桶が並ぶ天保蔵は見学可能。鏡山酒造、カフェ、ギャラリーなども併設。TEL.049-222-0432(見学受付)
「川越いも」発祥地で売られる個性豊かな芋スイーツ。写真は
芋乃蔵の「紫いもソフト」。芋餡クリームを挟んだ「ポテ蔵」も人気。
龜(かめ)屋の「小江戸川越シュー」や、本丸御殿近くの
道灌の「丁稚(でっち)芋」も昔ながらの味わい。
川越藩の城下町は、城主・松平信綱のもと、十カ町四門前(じっかちょうしもんぜん)に整備された。現在、蔵造りの町並みと市役所が交差する場所にあたる札の辻は、かつて高札場があった中心部。一帯は市立てをする商人の町・上五ヶ町(かみごかちょう)と呼ばれた。これに隣接して、「時の鐘」が建つ職人町の町・下五ヶ町(しもごかちょう)があり、西側には養寿院や行伝寺などとともに、菓子屋横丁などの門前町が形成された。
往時、江戸では度重なる大火への対策として、幕府が瓦ぶき屋根を奨励し、土蔵造りが流行していたが、川越でも蔵造りの家屋がこぞって造られるようになった。
川越に残る最古の蔵造り建築は、寛政4年(1792)築の大沢家住宅(国指定重要文化財)だが、現在、蔵通りを中心に残されている30数棟の蔵造り家屋のほとんどは、明治26年の川越大火の後に造られた。そのころ川越商人は、新河岸(しんがし)川の舟運による江戸との商いで財力を蓄え、豊かだった。そのため大火後の再建にあたって、費用はかさんでも、耐火性に優れた伝統的な蔵造りによる再建を選んだのである。今に残る、大きな鬼瓦の屋根に黒漆喰の壁、観音開きの扉を持つ風情ある町並みは、ここに端を発しているのだ。
一方、東京ではすでに、耐火建築としてレンガ造りや石積みの近代的な建物が造られていた。これにならい、川越でも新しい建築資材が採用され、近代洋風建築と和風建築が共存した独特の町並みを造り上げていったのである。
川越市内を散策していると、あちこちでサツマイモのスイーツが売られる菓子店を見つけ、楽しい気分になってくる。実は川越は江戸時代、将軍に献上されてその名がついた川越いも発祥地なのである。
日本でサツマイモが栽培され始めたのは江戸時代のことで、飢饉の際に主食の代わりとして重宝された。19世紀初めには江戸で焼き芋が流行したが、新河岸川や入間川をたどった舟で江戸に出回った川越のサツマイモは、10代将軍・徳川家治に献上され、「川越芋」と呼ばれるようになった。そして文政年間には、江戸から川越まで十三里(約50km)あったことから「栗(九里)より(四里)うまい十三里」という焼き芋屋の宣伝文句も流行り、川越いもの名が一躍有名になったという。
その後、明治31年に、埼玉県木崎村(現・さいたま市)の主婦であった山田いちが、従来のサツマイモよりはるかに甘くておいしい突然変異種を偶然に発見した。これが市場で高値で売れ、近隣の村から次々と苗の販売要望を受けた。甥の吉岡三吉蔵は、この新種を広めることを自分の使命とし、「紅赤」と名づけて薄利多売で苗を生産・販売した。栽培が非常に難しいとされていた品種だったが、近年、川越市内でも栽培が復活し、有志により「川越いもの会」が結成されている。
川越では、サツマイモスイーツを頬張りながらそぞろ歩く観光客の姿が見られる。江戸でも流行したご当地の味を楽しみ、風情ある通りを歩けば、かつての城下町に思いを馳せられるのだろう。
★1日目
JR西川越駅→(徒歩25分)→河越館跡史跡公園→(徒歩5分)→常楽寺→(徒歩50分)→中ノ門堀跡→(徒歩7分)→川越城本丸御殿→(徒歩15分)→喜多院→(徒歩3分)→五百羅漢
★2日目
菓子屋横丁→(徒歩5分)→川越市蔵造り資料館→(徒歩3分)→時の鐘→(徒歩10分)→うなぎのいちのや→(徒歩10分)→松本醤油→(徒歩7分)→芋乃蔵
※所要時間は目安です。休憩しながら無理のない古道歩きをオススメします。
※掲載されているデータは2016年2月現在のものです。
まつりの起源は慶安元年(1648)。川越藩主であった松平信綱が、氷川神社に神輿を寄進したのがきっかけだ。慶安4年(1651)から華麗な行列が町を巡行するようになった。
現在も毎年、10月の第3土・日曜に開催。各町ごとに精巧なからくり人形を乗せた絢爛豪華な山車が出陣し、蔵造りの町並みを曳行する。クライマックスは夜。出店も並ぶにぎやかな昼の風景とは一転、山車が互いに正面を向けて競い合う「曳っかわせ」で囃子が入り乱れ、曳き衆の提灯が乱舞するさまは、見応えがある。
川越まつり
問合せ: 川越まつり協賛会事務局 TEL.049-224-5940
川越まつり会館 TEL.049-225-2727
東京駅から上野東京ラインで31分の大宮駅下車後、埼京線・川越線に乗り換えて約30分の西川越駅下車
文:風美紫紺(かざみしこん)
PROFILE
ライター。映像制作会社スタッフ。
風土と歴史や文化があいまって作りだす、その土地にしかない「風のいろ」と出合いに、日本各地を旅する。
自分の足で「道」を往き、五感で風を感じて、時空を超える旅の楽しさを伝えたい。
子育てとツーリングライフを描いた著書『ママはバイクを降りない』(潮出版社)など。