01/13
『五足の靴』とは、歌人・与謝野鉄幹が門弟である北原白秋、平野万里、吉井勇、木下杢太郎(もくたろう)を伴い、九州を旅した紀行文。
天草市内で、5人がたどった道は「五足の靴文学遊歩道」と名づけられ、一部は散策コースとなっている。
02/13
CATHEDRAL CHURCH
大江教会
明治18年(1885)、布教のため来日したフランス人宣教師、ルドヴィコ・F・ガルニエは、明治25年(1892)に天草の大江教会に司祭として赴任。以来、昭和16年(1941)に没するまで、同地で布教に専念した。
現在の大江教会は、昭和8年(1933)にガルニエ神父が地元信者と協力して完成させたもの。またガルニエ神父が司祭を兼任していた﨑津教会は、羊角(ようかく)湾を望む漁村に建ち、その景色は「日本の渚百選」にも選ばれている。
03/13
SHIRO AMAKUSA
天草四郎
キリシタン大名・小西行長の遺臣、益田甚兵衛の子。幼少期より聡明で、容姿端麗でもあり、キリシタンたちにより救世主として神格化されていった。写真は天草キリシタン館に立つ、四郎の像。
祇園橋から殉教戦千人塚のある城山公園、天草キリシタン館、明徳寺は観光コースにもなっている。高台に建つ天草キリシタン館は眺望もよく、絶好の撮影ポイントだ。
04/13
BRIDGE
祇園橋
長さ28.6m、幅3.3mある国内最大級の石造桁橋。5列9行の45脚によって支えられている、この橋が架けられたのは、江戸時代後期の天保3年(1832)。「天草・島原の乱」から約200年後、庄屋の大谷健之助が発起人となり、庶民の手により造られた。
祇園神社の前にあるので「祇園橋」。国の重要文化財に指定されている。
05/13
曹洞宗の禅寺。正保2年(1645)、「天草・島原の乱」後、初代代官となった鈴木重成が民の心の平定と、キリスト教からの改宗を目的として、兄の禅僧・鈴木正三の助力を仰ぎ、建立。
市の文化財に指定されている山門、異人の顔をした異人地蔵など見どころも多い。
06/13
「恐竜の島」ともいわれる御所浦島。海上タクシーなどで海から「白亜紀(はくあき)の壁」などの観光を楽しんでから、「白亜紀資料館」へ。天草地域で発掘された化石が多く展示され、化石採集も体験できる。
写真は、御所浦島の最高峰・烏(からす)峠からの眺望。
07/13
鎌倉時代、元の大水軍が攻めてきた国家最大の危機「元寇」。文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2度の戦いにおいて、水軍を率いて防戦に当たったのは、本渡城主である天草太夫大蔵太子。なんと女性であった。
本渡諏訪神社は、元寇の戦いにおいて神風を吹かせ、日本を守ってくださった諏訪大明神の御加護に感謝し、弘安6年(1283)に信州の諏訪大社より勧請したもの。以来、この地域の総鎮守として信仰を集めている。
08/13
江戸時代後期、帆船でにぎわった牛深港で生まれた民謡「牛深ハイヤ節」。酒盛りの唄として、船乗り達に愛され、牛深から全国へと広まっていった。
新潟の「佐渡おけさ」、青森の「津軽アイヤ節」、宮城の「塩釜甚句(しおがまじんく)」、茨城の「潮来甚句(いたこじんく)」など、牛深ハイヤ節を源流とする民謡は多い。
牛深地区では、毎年4月に「牛深ハイヤ祭り」、6月に「牛深ハイヤ節全国大会」を開催している。
9/13
POTTERY STONE
天草陶石
全国シェア80%にも上り、その質の良さから有田焼、瀬戸焼の原料としても使われている「天草陶石」。現在、30数軒もの窯元がそれぞれの個性を生かして作陶に励んでいる。
「高浜焼 寿芳窯(じゅほうがま)」は、「天草陶石」を製陶原料とする天草を代表する窯元であり、創業は江戸時代。明治時代に一時衰退したものの、昭和27年(1952)復興。白く薄い、透き通るような作風が特徴。窯元には約200年前の屋敷が現存しているほか、資料館も隣接。
10/13
タコが多く獲れる天草では、2005年7月に国道324号の有明区間を「天草ありあけタコ街道」と命名。
街道沿いには、工夫を凝らしたタコ料理を出す飲食店や民宿が。混ぜるだけで作れるタコ飯の具は、おみやげとしても大人気だ。
また旬である夏には、足を広げ干されたタコの姿があちこちで見られる。
11/13
LOCAL FOOD
せんだご汁
天草(特に下田地域)に伝わる郷土料理。特産のいも(サツマイモ、ジャガイモ)のでんぷんで作ったモチモチした団子に、季節ごとに変わる根菜がおいしい。天草の地鶏「天草大王」を使う飲食店も。
12/13
700年前、傷ついた白鷺が傷を癒していた場所で発見された下田温泉は、天草最古の温泉。地下数百mの天草陶石層から湧き出しているという。
下田温泉一の老舗旅館である旅館 伊賀屋は、2004年に明治創業時の雰囲気を残しつつ、全面改装。「沸かさず、薄めず、循環なし」の温泉が、天草陶石、天草産檜の2種類の浴槽で楽しめる(檜風呂には、バラを浮かべることも)。
平日1泊2食(2名1室)1名、10,950円~(消費税・入湯税込)
13/13
天草へは、JR熊本駅発の特急「A列車で行こう」に乗って、レトロモダンな大人旅を。「16世紀の天草に伝わった南蛮文化」がテーマの列車は、黒色と金色でエキゾチックな装い。車内にはステンドグラスやマリア像が飾られ、異国情緒たっぷり。JR三角(みすみ)駅で降りたら、フェリーに乗り継ぎ、「天草宝島ライン」で本渡港へ。
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現在は、鉄道で気軽に行くことができるようになった天草。市内の道も整備され、天草諸島を構成する島々に渡るのにも高速船や海上タクシーなど、便利な足がたくさんあります。
明治40年(1907)、歌人・与謝野鉄幹がまだ学生だった北原白秋ら4人を伴い、九州を中心に旅した紀行文『五足の靴』には、天草についてのこんな記述が。
「富岡より八里の道を大江に向ふ。難道だと聞いた。天草島の西海岸を北より南へ、外海の波が噛みつくがりがりの石多き径(みち)に足を悩ましつつ行くのである」
彼らが目指したのは「パアテルさん」ことフランス人宣教師・ガルニエ神父がいる大江教会。「石多き難道」の先、いわば僻地に教会があることからも、キリシタンの受難の歴史が偲ばれます。
天草といえば、天草四郎を思い浮かべる方も多いかもしれません。江戸時代初期、この地で起きた「天草・島原の乱」において、民衆側の総大将であった四郎。乱自体は、過酷な労働や年貢を強いる藩に対する民衆の武力蜂起でしたが、キリシタンの間でカリスマ的人気を誇っていた、わずか16歳の少年・四郎が総大将に担がれたことで、数多(あまた)ある農民一揆とは一線を画す、鮮烈な印象を今も歴史に残しています。
四郎率いる一揆勢と唐津藩は壮絶な戦いを繰り広げ、現在、国の重要文化財に指定されている祇園橋の周辺は死体で埋め尽くされたと伝えられています。城山公園にある殉教戦千人塚は、この乱で失われた多くの命を弔うために建てられたもの。近くにある明徳寺(みょうとくじ)は、乱後の人心平定のために建立された禅寺です。
このようにキリシタンの歴史が色濃い天草ですが、歴史を遡ると、今から約1億4500万年~6500万年前といわれる、大型恐竜が生きていた白亜紀にまでいきなり飛んでしまうのがおもしろいところ。
2009年、日本ジオパークに認定された御所浦島(ごしょうらじま)をはじめとする周辺の島々は地層が古く、「白亜紀の壁」などが残っています。恐竜の足跡やアンモナイトの化石が多く発見されているほか、現在も化石採集体験ができる恐竜パラダイスなのです。
縄文時代の石器が発見されていたり、平家の落人伝説があったり。「御所浦」という地名は、ヤマトタケルの父宮である12代・景行天皇の西国巡幸のときに、この島に宮が置かれたという言い伝えからきたものであったり。古来、この地に人が暮らし、中央との関わりもあった、そんな歴史が息づいています。
中央だけでなく、海を渡り、大陸や南方とも交流があった天草。鎌倉時代最大の危機であった元寇(げんこう)のときも、水軍を率い、勇敢に戦った女城主などの逸話が残っています。
最南端にある牛深(うしぶか)地区に古くから伝わる民謡「牛深ハイヤ節」は港から港へ全国に広まっていき、「全国ハイヤ系民謡の源流」とされているもの。また、陶磁器の原料となる陶石の品質、埋蔵量は日本一。「天草陶石」は全国シェアの80%にもなるのだとか。
もちろん、海に囲まれた天草では、「天草ありあけタコ街道」なるものまで作られたタコをはじめ、四季折々の絶品・新鮮魚介が味わえます。また、デコポンやサツマイモ、日本最大級の大きさを誇る地鶏「天草大王」、贅沢な具が山盛りの「天草ちゃんぽん」など、知られざる美食の宝庫でもあるのです。
700年の歴史を誇る下田温泉や一年中楽しめるイルカウォッチングなど、まだまだ尽きない天草の魅力。行く夏を惜しみつつ、訪ねてみませんか?
写真協力: 天草宝島観光協会、旅館 伊賀屋、交通新聞サービス
※掲載されているデータは、2014年9月現在のものです。
※イベントや催事等は変更される場合があります。事前にご確認のうえお出かけください。
文= 秦 まゆな(はた・まゆな)
PROFILE
日本文化案内人・文筆家。歴史と伝統文化に裏打ちされた、真の日本の楽しみ方を提唱すべく、日本全国を駆け回り中。その土地ならではの食、酒、温泉、祭りが大好物。
著書『日本の神話と神様手帖 あなたにつながる八百萬の神々』(マイナビ)。
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