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今年は徳川家康公薨去(こうきょ)から400年。これを記念して、家康公ゆかりの地である岡崎市、静岡市、浜松市ほか静岡県内周辺市町では、2015年12月までさまざまなイベントが企画されています。
権謀術数渦巻く、過酷な戦国時代を生き抜き、徳川300年の繁栄の礎を築いた家康公。生誕の地である岡崎市を訪ねると、その生涯が決して幸せな光にのみ包まれたものではないことが伝わってきます。
天文11年(1542)12月26日寅の刻(午前4時頃)、家康公は三河国岡崎城主・松平家の8代当主・広忠の嫡男として、岡崎城内にて誕生しました。復元された岡崎城が美しい姿を見せる岡崎公園内には、家康公の産湯の井戸や、えな(出産後に排出される胎盤など)を埋めた「東照公えな塚」なども残されています。
母は、同じ三河国刈谷城主・水野忠政の娘、於大(おだい)。水野は松平に娘を差し出しながらも、松平と敵対関係にあった織田信秀(信長の父)にも協力する姿勢を見せていました。戦国時代ならではの婚姻は、当然ながら長くは続かず、水野が織田と同盟を結んだことで、於大は離縁されることに。大泉寺は、家康公誕生の翌年に於大が創建した寺。そこには、於大が安産を祈願した薬師如来が本尊として祀られています。そんな愛しい我が子のもとを去らなければならなかった母・於大の辛さはいかばかりだったでしょうか。
家康公(幼名は竹千代)は3歳にして、母と引き離され、また4年後の天文18年(1549)には、父・広忠が城中にて家臣に斬られ、命を落とすという不幸に見舞われます。今川氏の人質として駿府に送られることになった家康公は、父が埋葬されている能見ヶ原の月光院を訪れ、父に松平一族の繁栄を祈願し、松を植えたと伝わります。
今川義元の下、人質として成長した家康公の人生の転機は、永禄3年(1560)の桶狭間の戦い。義元が織田信長に討たれ、家康公自身も命からがら菩提寺である大樹寺に逃げ込み、自害を覚悟したといいます。それを諭したのが、住職である登誉上人。生き抜く決意をした家康公は今川が放棄した岡崎城へ入城。織田信長と同盟を結び、今川と決別をするのです。
生誕の地にようやく戻ったとはとはいえ、家康公に安らぎの時は訪れません。三河一向一揆を鎮圧、今川を排除して、ようやく三河国を統一できたのは、永禄9年(1566)のことでした。しかし激しい戦いの日々の中、父が埋葬されている月光院に松応寺を、祖父・清康とその妹の久子のために随念寺などを次々に創建しています。蛇足ながら、清康の最期も陣中で家臣に斬られてのもの。親子二代、家臣の裏切りに遭う、それもこの時代ならではなのでしょうか。
家康公の人生最大の悲劇といわれる事件も、岡崎城で起こりました。天正7年(1579)、信長より正室・築山殿と嫡男・松平信康に死罪の命が下ったのです。長篠の戦いなど死闘を繰り広げた武田氏と内通しているというのがその理由。家康は悩み抜いた後、この命を受け入れたといわれています。
この一件、信康の嫁である徳姫が日頃より不和だった築山殿と信康の不行状を、父・信長に書き送ったことが原因というのが通説ですが、家康のいる浜松城派と信康のいる岡崎城派の派閥争いから家康親子にも深刻な対立が生まれたという説など諸説あり、事実は歴史の闇の中……。非業の死を遂げた信康の首塚は若宮八幡宮に、築山殿の首塚は八柱神社にそれぞれ残されています。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後、征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた家康は、元和2年(1616)4月17日、73歳でこの世を去りました。そのとき、胸に去来したものはどのような景色だったのでしょうか。
家康公にとって懐かしい景色に違いない岡崎の地は、その後も幕府から厚い待遇を受け続けました。特に、3代将軍・家光は滝山東照宮をはじめ、多くの寺社を創建、また松平氏ゆかりの寺社を再建しました。
「人口当たりの神社仏閣の数は、京都や奈良よりも多い」ともいわれる岡崎市。家康公生誕の地としての威光もありますが、それよりずっとずっと以前から、矢作川流域に広がるこの地は交通の要衝として重要な地であり、鎌倉時代には政治的にも重要な地となりました。竹膳料理で有名な真福寺は、聖徳太子の許しを得て創建されたと伝わる古刹。この季節、神域に梅が咲き誇る岩津天満宮、霊山とされる天神山には古墳が数多く残り、この地が古来、栄えていたことを静かに伝えています。
八丁味噌はもちろん、最近ではゆるキャラのオカザえもん、イエヤスコウとシテンニョーシカなど、何かと話題の岡崎市。4月5日には桜吹雪が舞う中、豪華絢爛な「家康行列」が市内を練り歩きます。
最後に、松平・徳川家の菩提寺である大樹寺も、寛永13年(1636)から家光の手により伽藍の大造営が行なわれました。本堂から山門、総門から真っ直ぐに岡崎城が見られるように配置され、歴代城主は天守閣から大樹寺を毎日拝礼したと伝えられています。それから370年経った現在、ビルが建ち並ぶようになった岡崎ですが、大樹寺―岡崎城の眺望は変わりません。周囲の建造物によりこの眺望を遮ることのないよう、自発的な配慮がなされているといいます。今もこの地の人々に愛され続けている家康公を感じに、春の1日、岡崎を訪ねてみてはいかがでしょう?
文= 秦 まゆな(はた・まゆな)
PROFILE
日本文化案内人・文筆家。歴史と伝統文化に裏打ちされた、真の日本の楽しみ方を提唱すべく、日本全国を駆け回り中。その土地ならではの食、酒、温泉、祭りが大好物。
著書『日本の神話と神様手帖 あなたにつながる八百萬の神々』(マイナビ)。
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