『トレたび』は、交通新聞社が企画・制作・運営する鉄道・旅行情報満載のウェブマガジンです。
現在の島根県は、かつての出雲国(いずものくに)、石見(いわみ)国、隠岐(おき)国の集合体。今回旅する石見地方は、約120kmと東西に長く、益田市を中心とする西部(石西)、浜田市、江津市を中心とする中部(石央)、大田市を中心とする東部(石東)に分かれます。島根県の中でも神楽が特に盛んなことで知られますが、その広さゆえ、ひと括りに「石見神楽」といっても地域により違いがあるとか。西の益田市から東の大田市へ、日本海沿いを走るJR山陰本線に揺られ、まだ見ぬ石見を探します。
萩・石見空港からも近い益田市は古来、交通の要衝であり、港にも適した地。平安時代後期からは、石見国司である益田氏の本拠地となりました。4代・益田兼高は源平の戦いで、源氏方につき手柄を立てるなど、力を蓄え、兼高以降も周辺勢力と結びつきながら、石見での地盤を強固なものにしていきました。
15代・兼堯(かねたか)の時代は応仁の乱から続く戦乱の世。兼堯は数々の戦で武功を上げる一方、禅僧であり、水墨画家の雪舟と親交を深めるなど、文化への理解も深かったといいます。
兼堯の招きにより、益田を訪れた雪舟。その厚遇の御礼にと描いた『益田兼堯像』をはじめ、萬福寺、医光寺の石庭など、益田にはその足跡があちこちに残されています。
益田に足跡を残す、もうひとりの有名人といえば、飛鳥時代の宮廷歌人・柿本人麻呂。『万葉集』にしかその名が残されておらず、謎多き人物とされている人麻呂ですが、奈良時代に柿本家の語部として、現在の益田市戸田町に下向してきた綾部家が、同地を人麻呂の生誕の地と人々に伝えたといいます。その地には江戸時代、石見津和野藩3代藩主・亀井茲親(これちか)によって戸田柿本神社が創建されました。茲親はまた、人麻呂の終焉の地を伝える高津柿本神社を移築・改修しています。
明日訪ねる江津は、人麻呂の妻である依羅娘子(よさみのおとめ)の生誕の地ともいわれ、二人が出会った場所。『石見相聞歌』など、二人の愛の歌が詠まれた地でもあります。
そんな道程に思いをはせつつ、今宵は雄大な日本海と一体化するようなすばらしい露天風呂が楽しめる荒磯温泉 荒磯館に泊まります。
翌日は浜田市からのスタート。国司として人麻呂が赴任したであろう国府がどこにあったのか、確定されてはいないのですが、浜田市の可能性が高いと考えられています。というのも、浜田市にある片山古墳には、側壁に敲打(こうだ)という高度な技法によって仕上げ加工された切石が用いられていること。近くに跡を残す下府廃寺(しもこうはいじ)は、片山古墳に埋葬された主の子、孫といった近い時代の系譜者により建てられたものと想定されること。そこにはおそらく五重塔が建っていた跡が残ることなど、中央の高い技術がこの地にもたらされていたことを物語る史跡が多く残っているのです。この地域に中央とも通じる有力首長がいた、そして、その時代は人麻呂が生きていた時代とも重なると考えられています。
中央から派遣された人麻呂も、この地の産業にひと役買っていたといわれます。それは、手すき和紙。このほどユネスコ無形文化遺産に登録された石州(せきしゅう)半紙は、人麻呂からこの地に伝えられたとされ、約1300年もの間、大事に受け継ぎ、守られてきました。浜田市にある石州和紙会館では、製造の全工程を体験することができます。
石見全域で今、盛り上がっているのが、石見の魚を味わう「えびす丼」、石見の肉を味わう「オロチ丼」、そして石見の特産を味わう「大黒めし」、この3種の総称「石見の神楽めし」です。飲食店それぞれが独自においしいメニューを開発、肉も魚も「これでもか!」という欲張りメニューになっています。
浜田といえば、県内一の水揚げ量を誇り、全国で13港しかない「特定第3種漁港」にも選ばれている浜田漁港を擁する地。自然条件に恵まれ、他産地の魚よりも脂の乗りがいいことが島根県水産技術センターの調査で明らかになっており、特においしいとされるノドグロ、アジ、カレイを「どんちっち三魚」としてブランド化もしています。石見ポークなどにも心引かれつつ、ここは自慢の魚がてんこ盛りな「えびす丼」をチョイスといきましょう。
極上ランチを済ませたら、お隣の江津市へ。人麻呂と依羅娘子の銅像と、日本海を見下ろす絶景が待つ高角山公園、石州和紙と並び、名物と称された石州瓦の赤い屋根が続く町並みを歩きます。
江津市には、開湯1350年以上の歴史ある有福温泉があります。地元で愛され続ける昔ながらの公衆浴場のほか、タイプの違う6つの貸切風呂がある有福Cafeも誕生。島根県産の仁多米(にたまい)、島根和牛や穫れたて新鮮野菜など、地元の食材の魅力を新しい感性で生かした料理が人気です。古さと新しさが共存した空気は今がまさに旬。
もうひとつ、この日の宿の候補となるのが、お隣、大田市の温泉津(ゆのつ)温泉。世界遺産・石見銀山の銀はここに運ばれ、北前船に乗って出て行きました。当時、江戸が人口50万人都市だったのに対して、温泉津は20万人。銀山の人夫に海の男たちで賑わい、当然、花街も栄え、芸妓衆も300人と、その華やかさは京都に匹敵するほどだったとか。そんな歴史を静かに伝える今の温泉津もまた味わいに満ちています。
一夜明け、大田市でめぐりたいのが五十猛(いそたけ)町です。須佐之男命(すさのおのみこと)の御子神である五十猛神(いそたけるのかみ)の名前がそのまま地名になったもの。父である須佐之男命(すさのおのみこと)とともに、樹木の種を持って、新羅国に降臨し、日本にやってきたと神話が伝える神です。この五十猛町は、父子神が上陸した地をはじめ、たくさんの伝説が色濃く残り、五十猛神を祀る五十猛神社は今も厚く信仰されています。
五十猛神は、日本各地に樹木の種をまき、紀の国にお鎮まりになったと神話は伝えています。その終焉の地、和歌山県和歌山市には、伊太祁曽(いたきそ)神社が鎮座し、五十猛神をお祀りしています。この連載は今回で最終回。和歌山で五十猛神をめぐる旅をご紹介できないのが残念です。
ひとつの土地の歴史を知ると、次に行きたい土地が必ず出てきます。旅を点で終わらせない。日本中につながる線路のように、点と点がつながり、線となっていく旅を生涯かけて楽しむ。そんな幸せを積み重ねていきたいものですね。
文= 秦 まゆな(はた・まゆな)
PROFILE
日本文化案内人・文筆家。歴史と伝統文化に裏打ちされた、真の日本の楽しみ方を提唱すべく、日本全国を駆け回り中。その土地ならではの食、酒、温泉、祭りが大好物。
著書『日本の神話と神様手帖 あなたにつながる八百萬の神々』(マイナビ)。
フェイスブックも更新中!