朝、鳥の声で目が覚める。外をのぞくとあたりはまだ薄暮の中。朝日を待ちながら露天風呂に浸かろうと部屋を出ると、廊下を歩く足音があちらこちらから聞こえてくる。やはり、鳥の声に起こされた客たちだろう。
「おはようございます」。気軽に声を掛け合いながら、露天風呂に浸かる。運が良ければ、目の前の崖を散歩するカモシカに出会えるかもしれない。派手なところなど何もない山の中の一軒宿。だからこそ、自然を身体いっぱいに感じられる。それが奥鬼怒温泉郷である。
八丁湯は、奥鬼怒温泉郷の入口である女夫渕温泉郷に最も近く位置している。点在する4ヵ所の一軒宿の中で、最初に造られた宿である。昭和4年のこと。それ以前は、鬼怒川の中に湧き出す湯の周囲を囲って湯船を造っただけの野湯で、山で木挽き作業をする人々が仕事帰りに入浴していたという。川底の源泉は台風による川の氾濫によって土砂に埋まってしまったが、代わりに、宿の前の崖から湧き出すようになった、現在は、8ヵ所から湧き出す源泉が6つの湯船にかけ流され、泉質の異なる湯を楽しむことができる。内湯の男性浴室は、創業当時そのままの姿で残っている。
「当時は、山道を歩いて建設資材を運んだそうです。内湯はコンクリート製の素っ気ないものですが、祖父が苦労して手造りしたものだと思うと、作り直す気になれなくて……」
事情を知る常連客にも愛され続けている内湯である。
その代わりに、露天風呂は、4つの湯船が目の前の滝を眺められるように配されている。それぞれに湯温が違っているので、温い湯にゆったり浸かり、最後に集めのお湯で仕上げをと、自分のペースで使い分けることができる。春は新緑、夏は濃い緑、秋は紅葉。そして、冬の楽しみは何と言っても雪見風呂だ。
奥鬼怒温泉郷の各宿に電気が引かれたのは昭和63年のこと。それ以前は夜にはランプが灯っていた。設備や交通はかなり便利になったけれど、ランプの宿の雰囲気はしっかりと残っている。それが八丁湯の大きな魅力だ。