別府鉄輪(かんなわ)温泉街は「いでゆ坂」から「みゆき坂」まで続く、長い石畳の坂道を中心に広がっている。その坂道から狭い路地に入ると、民家や湯治宿、共同温泉がひしめく。「ああ、鉄輪だ」と思わずつぶやいてしまう風景である。
街のあちこちから、湯煙が上がり、どこを掘っても温泉が湧き出しそうだ。鉄輪にある湯治宿のひとつ、「双葉荘」の女将、伊東アサ子さんによると、「晴れた日の湯煙はフワッと優しい感じだけれど、雨の日は激しく噴き出すの」。朝晩や季節によってその様子は変化するという。
ところで鉄輪温泉の街中には野良猫が多い。その理由は道路に手を触れるとよくわかる。地熱で地面がほんのり温かいのだ。道ばたで気持ち良さそうに寝転ぶ猫たち。すぐ横の側溝からは、温泉の蒸気が立ち昇っている。年中ポカポカとしたこの街は猫たちにとってもパラダイスなのだ。 別府は温泉の湧出量、源泉総数ともに日本一。中でも鉄輪温泉には最も多くの源泉がある。ひと際大きな湯煙を上げる別府地獄の様子を見れば、日本一の温泉というのも納得できる。
鉄輪の開湯は鎌倉時代までさかのぼる。念仏行脚の途中で別府を訪れた一遍上人が轟々と蒸気や熱泉を吹き出す地獄地帯を鎮め、湯治場を開いたのが始まりだとされている。鉄輪温泉の代表的な施設である「鉄輪むし湯」も一遍上人が創設したものだと言い伝えられている。
その鉄輪むし湯を体験してみることにした。浴衣に着替え、人ひとりがやっとくぐれるほどの扉を開くと、むせ返るような蒸気。そして石菖といわれる薬草の香りが石室内部からムッと迫る。中の温度は70度だが、高湿度のため、それ以上の熱さに感じる。敷き詰められた石菖の上に横たわると、すぐに体中から汗が滝のように噴き出してきた。まるで体中の汗腺が開ききったようだが、体の毒素が汗と一緒に出ていったようで、実に爽快な気分だ。